元気だった娘に突然の余命宣告。震える文字で書いた「ママが一番大好きだよ」これが最後の手紙になった【小児脳幹グリオーマ体験談】

元気だった娘に突然の余命宣告。震える文字で書いた「ママが一番大好きだよ」これが最後の手紙になった【小児脳幹グリオーマ体験談】

昨今、全国各地で小児がん支援のための「レモネードスタンド」が開かれていることをご存知でしょうか?小川蘭さんは沖縄県うるま市在住で、長女(14歳)、二女のいろはちゃん、長男(10歳)、三女(4歳)、夫の6人家族です。小川さんは2022年の3月に二女のいろはちゃん(当時10歳)を、小児がん「小児脳幹グリオーマ(DIPG)」で亡くしています。いろはちゃんが旅立ってから2年たった現在、小川さんは沖縄県内のイベントを中心にレモネードスタンドを開き、集まった寄付金で小児がん支援を行っています。

小川さんに、いろはちゃんの病気が判明したときのことや、いろはちゃんが闘病していたときのことをお聞きしました。全2回のインタビューの1回目です。

スケートでふらつくようになって受診。医師から告げられた半年の余命宣告

―― いろはちゃんは当時10歳、4人きょうだいの中では1番のしっかり者で真面目な性格だったそうです。

「いろちゃんは、2011年3月18日生まれの4人きょうだいの二女です。兵庫県で生まれ、3年間ほどのハワイでの暮らしを経て、コロナをきっかけに日本の沖縄に帰ってきました。竹を割ったようなさっぱりとした性格で、チャレンジ精神も旺盛で、なんでも一生懸命取り組む子でした。大好きなフィギュアスケートにも一生懸命に打ち込んでいました」(小川蘭)

―― 毎日のようにフィギュアスケートに打ち込んでいたいろはちゃん。しかし、元気そうに見えていたいろはちゃんの身体には、ある異変が起きていました。

「2021年9月頃、フィギュアスケートの練習中、いろちゃんはふらついてよく転ぶようになりました。『選手登録しているような子が、氷の上に立っていられないのはおかしい。スケート選手に多い“メニエール病”かも?』とコーチと話し、かかりつけの耳鼻科に行きました。耳鼻科では原因が分からなかったのですが、受診する10日前に大きく転んでリンクに頭を打ち付けていたため、脳内出血を起こしている可能性があるということで、大きな病院に行くことになりました。大きな病院でCT検査をしてもらうと『脳内に腫瘍が見える』と言われました。その日、偶然訪れていた脳外科医に詳しく診てもらった結果、小児がん“小児脳幹グリオーマ(DIPG)”と診断され、余命半年と告げられました。

医師からは『“脳幹”は生命をつかさどる場所。この病気は世界中を探しても生きている子が1人もいません。腫瘍の成長が早く、放射線治療の効果は一時的です。“神の手”を探さずに今生きている時間を大切にしてほしいです。もしこれが事故だったら一瞬ですが、あなたには半年あります。半年の中で整理をつけてください』と娘が亡くなる前提で話が続けられました。何が一体どうなっているのかよくわかりませんでした。『この医者は何言っているんだろう?だって2週間前にはスケートの合宿も行っていたよ?1週間前には私と一緒に海に潜ったよね…?』あまりにも突然のことでパニックを起こしてしまい、気がついたら『先生にとってはたくさん見てきた患者の1人かもしれないけれど、私にとっては初めてのことで、私の子どもなんです!』と取り乱していました。

思い起こせば、ごはんを食べるのが遅かったり、最近笑った顔を見ないなと感じていました。すでに顔面まひが始まっていたんだと思います。また、転ぶようになったのと同時に、いろちゃんが『夜寝る前に目を閉じると頭の中がシーンとするんだよね』と不思議なことを言っていました。スケートの合宿もあり毎日早朝から夕方まで滑っていたので、本人と『ちょっと最近疲れているのかな』と話していましたが、まさかこんなことになるなんて…。“小児脳幹グリオーマ”という病気を初めて知ったので、診察が終わったあとは、病気のことを必死で調べました。わらにもすがる思いで国外の病院にも助かる方法はないかと問い合わせましたが、どの病院も返事は“NO”でした」(小川蘭)

震えながら書いた最後の手紙には『ママが一番大好きだよ』

―― 小川さんが感傷に浸っている間もなく、いろはちゃんはすぐにこども病院へ転院し、放射線治療を開始することになりました。

「その頃はコロナの真っただ中で、私が付き添い入院をしてしまうと病院から1歩も出られず、当時1歳だった三女のお世話ができませんでした。いろちゃんの病気は亡くなるという前提だったので、家族との時間を大切にするために退院して、自宅から放射線治療に通うことになりました。ふだんは仕事で大阪や東京を飛び回っているパパも、病気が分かってからは沖縄に残り、いろちゃんとの時間を過ごしていました。

本人には『病気になっちゃっているから治療しよう。落ち着いたらまた学校に行こうね』と言い、小児がんだということは最後まで伝えずに治療をしました。いろちゃんは、放射線治療の『においが嫌だ!』と、最初はとても嫌がっていました。しかし、そのうちに右半身まひが起こり、本人も治療に通わなければならないと感じたようです。顔面まひ、右半身まひ、だんだんと不自由になってゆく体を、私が支えながら通院していましたが、娘の体重をだんだん支えきれなくなり最終的には車いすを使っていました。

治療中のいろちゃんは、生真面目な性格と思春期に差し掛かる年齢があいまって、知っている人に今の自分を見られたくないという気持ちが強かったので、『友だちに会いたい』とか『学校に行きたい』という言葉はあまり口にしませんでした。また、顔面まひでこわばっているいろちゃんの顔を見た小さい子に『怖い』と言われたことがショックで、ショッピングモールなどの人が多い場所も避けるようになりました。

それでも、慣れない左手を使ってごはんを食べたり、料理を作ったり、震える文字で勉強したり、右手でボールを持ってリハビリしたり、『元の生活に戻れるように治すんだ』という気持ちを持って一生懸命に努力をしていました。

長女は毎日のようにいろちゃんの学校の友だちからの手紙を預かって帰ってきました。いろちゃんは自分の震えた字で返事を書くのが嫌だったので、長女にipadで返事を入力してもらい、それを印刷して手紙の返事をしていました。しかし、亡くなる1カ月前の私の誕生日には、震えながら書いたヨレヨレの文字で『ママが一番大好きだよ』と手紙をくれました。それが最後の手紙になりました」(小川蘭)

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