「5年間生きられる確率は60%」7歳の娘に突き付けられた現実をくつがえすために、母と父は必死の思いで行動を起こす【小児脳腫瘍・体験談】

「5年間生きられる確率は60%」7歳の娘に突き付けられた現実をくつがえすために、母と父は必死の思いで行動を起こす【小児脳腫瘍・体験談】

山崎宴子さんの長女、理咲子さん(24歳)は、小学校1年生のときに小児脳腫瘍と診断されました。混合性胚細胞腫瘍(こんごうせいはいさいぼうしゅよう)という腫瘍で、手術では治らないタイプのため、抗がん剤と放射線による治療を行うことになりました。
現在、小児がんの子どもとその家族を支える活動を行う公益財団法人ゴールドリボン・ネットワークに勤めている宴子さんに聞く、全3回のインタビューの2回目は、家族で小児脳腫瘍の治療に立ち向かっていたころのことです。

もっと早くに病気に気づけなかったのかと、父と母はともに自分を責める

理咲子さんが患っていることがわかった小児脳腫瘍は、下垂体に広く深く浸潤 していて、手術で取り除くことはできないタイプでした。

「小児脳腫瘍と診断されたのは2007年6月。理咲子が7歳になる直前のことでした。
診断を受けた兵庫県の専門病院では、抗がん剤と放射線の治療に1年かかると説明を受けました。夫が『娘は助かりますか』と聞いたとき、医師は『治療の効果が出ても5年生きられる確率は60%』だと言いました。

理咲子を苦しめている脳腫瘍が、それほどタチの悪いものだったとは。あまりにも厳しすぎる現実を前に、『なぜもっと早くに気づくことができなかったのか』と、私と夫は自分たちを責め続けました」(宴子さん)

小児脳腫瘍と診断された日、子どもたちが寝たあと、宴子さんと夫の真一さんは深夜まで、理咲子さんの病気について話し合ったと言います。

「その翌日、理咲子と夫が一緒におふろ に入ったときのこと。理咲子が『病気になっちゃってごめんなさい』って言って大泣きしたそうなんです。夜中に目を覚まして、昨夜の私たちの会話を聞いてしまったようでした。

夫は幼い娘が親に気をつかっていることにショックを受けたと言っていました。
でもだからこそ、『何としても助ける』という思いが夫も私も強くなりました」(宴子さん)

娘に付き添うために、息子はいくつもの一時預かりの保育園へ

2007年7月に抗がん剤の1クール目が始まりました。

「治療については、抗がん剤の効果が出るのか、副作用で苦しめられるのではないかと、心配なことばかり。せめて理咲子に寄り添っていたいと思い、毎日病院に通いました。
当時3歳だった息子は病院に連れていけないので、乳児院や無認可保育園など預かってくれる場所をいくつも探し、とにかく毎日理咲子の病院に行ける時間を作りました。息子の具合が悪いときは、病児保育も利用しました」(宴子さん)

完全看護で、保護者であっても夜間は付き添えない病院でした。帰宅後は、理咲子さんのことが心配でならなかったそうです。

「看護師さんはたくさんの子どもたちの看護をしなければいけないので、きちんとみてもらえるのか、具合が悪くなったときすぐに対応してもらえるのかと不安で、家にいても落ち着きませんでした。病院に任せるしかないのがはがゆく、娘に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

私たちの経験はもう18年近く前のことですが、病棟保育士の充実、きょうだい児の保育や心のケアなどは、現在でも十分とは言えません。ゴールドリボン・ネットワークの仕事に携わりながら、少しでも早く解決しなければいけない問題だと感じています」(宴子さん)

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