●不当な逮捕、拘束、拷問、国外追放のおそれ
特に選挙期間になると、政治家が街頭演説をしている公共のスペースの場で、A4からA3サイズくらいの大きさ用紙に時の政府の政策などに批判的なメッセージを書いたものを持参し、政治家に対して抗議をしたり、あるいは黙って平穏に抗議をしたりしている人もいます。
しかし、このように黙って平穏に抗議をしている人であっても、参政党案第5条等に照らすと、「日本を大切にする心」がないとか、「我が国に対する害意がない」とはいえない、などと認定され、令状なく逮捕され、長期間拘束され、拷問【5】を受け、残虐な刑罰【6】を受けるなどのおそれがあると言わざるをえません。
現行憲法に明文で存在する令状なく逮捕されない権利の規定(33条)も、公務員による拷問や残虐な刑罰を絶対的に禁止する規定(36条)も、参政党案には明文規定がありません。
そのうえ、以上のとおり「国民」の要件を欠くと認定されてしまえば「自由」や「権理」ですらより制限されたり剝奪されたりするわけですから、突然逮捕され、長い間身体を拘束され、拷問を受け、しまいには残虐な刑罰を受けたり、あるいは「国民」ではないとなれば在留権も否定されたりするでしょうから、一方的に国外追放されるおそれもがあると指摘せざるをえないわけです。
私は現在、「角川人質司法違憲訴訟」という憲法訴訟・公共訴訟の原告代理人を担当しています【7】が、「人質司法」は決して他人事ではありません【8】。
そして、現行憲法のもとですら、罪を否認したり黙秘しているというだけで、自らの身体を人質にとられて事実上自白を強いられ、過酷で劣悪な場所に長期間拘束されることになるのが現実ですから、仮に参政党案の憲法に変わってしまうと、今以上に厳しい人権侵害が起こるであろうことはほとんど明らかでしょう。
「何だか大げさなことを言うなぁ」などと感じる人もいらっしゃるでしょうが、参政党案を憲法学・法学の観点から客観的に分析し、想定される危険やリスクを普通に指摘すれば、以上のようなことを言わざるをえません。
ですから、まったくもって大げさな評価でも、オーバーな表現でもありませんし、読者の方々の不安を煽る意図なども一切ありません。

●「当たり前のことが書いていない」こと自体リスク
参政党案には国民主権の明文規定がないわけですが、「基本的人権」(現行憲法第11条)という文言や、以上に述べた国民の個々の人権が個別に規定されていないことなどについて、「当たり前のことだから書いていないだけだ」などという反論がありえます。
しかし、「当たり前のことだから書いていない」というのは、1つの解釈(法解釈)にすぎず、そのような解釈は変更されうるものです。
実際に、第2次安倍内閣は2014年7月、従来の憲法9条の解釈に関する政府見解、すなわち個別的自衛権のみを認め、集団的自衛権は行使できないという解釈を変更し、集団的自衛権行使を一部容認する内容を含む閣議決定をおこないました【9】。
ですから、実際に、国民の権利や自由などに関して重要なことを明文で書いていないことそれ自体が大きなリスクだといえます。
「国民の要件を定めているからといって国籍の剝奪するつもりはない」とか「人権侵害のリスクは特に想定していない」とか「日本を大切にしてほしいという声を反映させたにすぎない」などといった反論【10】も想定されるところですが、同様に、これらも1つの解釈を示したものにすぎず、やはり将来的に規定や文言の解釈が変更されうるという危険性を内在する言い分だと考えておくのが無難でしょう。
ちなみに、参政党案第8条第1項で、国民の「主体的に生きる自由」を規定しており、これが参政党案の「注」によると、「包括的な自由権との解釈である」と説明されています。
しかし、これも同じような話で、この解釈もまた変更されうるものです。
「包括的な自由権」だというのであれば、それを明文で、「注」ではなく本文に明確に書いていないということ自体が大きなリスクだと言わざるをえません【11】。
ですから、参政党案第8条第1項があるから国民のさまざまな基本的人権が保障され、これらが侵害される危険はない、ということにはならないわけです。


