北区赤羽――。
4月。
密集した住宅街の中に、
古民家をリノベした白壁の二階建てのカフェがある。
「ごめん、仕事はいった…」土曜出勤の夫を、笑顔で見送れない私/連続小説 第1話
204,996 View結婚して、子どもができた。
普通の生活の先には、キラキラした幸せがあるはずだった。
白地の布に黒い文字で「Bun'kitchen」とプリントされた看板が二階の窓から下がり、
入り口に立て掛けられている黒板には
「今日は料理教室の日のため、カフェはお休みです」
とチョークで書かれている。
店内は白壁にフローリング、カウンター式のキッチン。
天井はむき出しの梁が見え、二十畳ほどのこぢんまりとした空間が心地よい。
アンティーク調のテーブル席が店の中央に集められ、五人の女性たちがパン生地をこねる。
その傍らに、手順を教えている男性店主がいる。
三人の生徒と店主は和気あいあいとしているが、残りの二人は様子が違う。
二十六歳、早智はフェミニンな服装のわりに、長い黒髪をきつ〜く一つに縛り上げ、黒ぶちの眼鏡から放つ真剣な視線でパン生地を観察しながら、こね上げている。
そして私、三十四歳の円田キリコは・・・・・・。
パン生地よ、すまない。
――ばちーん!
すごい勢いでパン生地をパンこね台にたたきつけた。
その様子に、三人の生徒と店主の会話が止まるが気にしない。
店主 「…キリコさん、パン生地は叩きつけるというより、優しくこねてくださいね」
キリコ 「……」
聞こえていないふりをし、私はスケッパーも使わずにパン生地を四つに引きちぎってやった。
そしてその四つの一つを手に取り、乱暴に丸めると、もう一度。
――ばちーん!
平常心なら「小さくてかわいい」と思えるサイズのパン生地すら、思いきり台にたたきつけてやった。
私の隣にいる早智はパン生地をきれいに形成し、満足したようにうなずくと、まっすぐに私に体を向ける。
早智 「キリコさん、力いれすぎです。あれですか、満さんが急に仕事になったことにイライラしてるとかですか。」
キリコ 「……そう!」
早智 「でもトラブルだって言ってましたよね。新しく入ったアシスタントが衣装を焦がしたとかで。マネージャーの満さんだけでなく、スタイリストのケンちゃんまで一緒にクライアントのところに謝りに行ってますし、けっこう問題なんじゃないですか」
重々分かり切ったことを丁寧に説明してくれる早智ちゃん。
私の夫・満はスタイリスト派遣事務所のマネージャーをしている。
そして早智の彼氏・ケンゾーは夫と同じ会社でスタイリストをしているのだった。
今日がどれだけ貴重な「一人時間」だったと…
早智 「キリコさん、聞いてますか?しょうがないですよね?それにこのベーグルの生地に何の罪もありません。叩きつけられ引きちぎられ、完全なる八つ当たりです可哀想に……」
キリコ 「わーってる! わーってるけど!」
(今日は私が唯一、ひとりになれる、月にたった二時間の解放時間だったのよ…)
早智 「疲れて仕事に行った夫を癒すのが妻の役目だと私は思いますけどね。奏太君は…まぁ、初めは騒いでいてやや迷惑でしたけど、さっきからスマホで大人しくしてますし。どっちみちゆっくりレッスン受けられていることには変わりない気もします」
早智の言葉に、マッシュルームカットのわが息子・奏太をチラリと見る。
今月、四月二十七日に三歳になる奏太は、面白いくらい言うことを聞かない。
本来なら今日はパパとグリーンパークで遊ぶ予定だった。
それがパパが急に仕事になったせいで、奏太は泣きわめき、
私に抱えられBun'kitchenにやってきた。
何も遊ぶ物がないお洒落なカフェで奏太の機嫌が直るワケもなく、
「こうえん、いく!」とカフェを飛び出そうとしたり、
パンの材料や道具をいたずらし、床にぶちまけたり、と手が付けられない。
穏やかな春の日に、私は大汗をかきながら奏太を追い回し、
そして「最後の手段!」とスマホで奏太の大好きな「東西線」の動画を見せ、その場は収まったのだった。
キリコ 「…最初のほう、迷惑掛けてすみませんでしたね」
早智 「でも幼児のスマホ見せすぎってよくないみたいですよ。脳によくないって、文章読んだことあります」
キリコ 「…それって時々聞くけど、長時間のテレビとか本の読みすぎとなんか違うわけ?スマホだけ、なんか特別な問題があるの?」
早智 「…たしかに。今度論文探してきましょうか。」
キリコ 「いや、いい…」
(実際、スマホに救われる親がどれほど多いことか…。子育てしないとわかるまい)
イライラが取れない私はふと、今朝のスイーツ占いを思い出す。
情報番組の中で最後に流れる占いで、「スイーツで運気が分かったら世話ないわ」と思いつつも、地味に参考にしてしまう自分がいる。
今日のラッキースイーツは「牛乳プリン」。
(もっとガッツリ甘いのが食べたい気分だけど、占いには逆らえない。牛乳プリンを買って帰らなきゃ。それで平穏な日になれるならお安いものだ)
◆◆◆
店主 「これから皆さんが形成した生地を三十分ほど発酵させたあと、私がすべて茹でてから焼き上げます。皆さんは片付けと身支度をしてお待ちください」
生徒たち 「はい」
皆でわらわらとテーブルの上を片づけ、テーブルを元の位置に戻すと、
私はお気に入りのソファー席に腰を下ろした。
向かいに座った早智はすぐにスマホをチェックし、にやりと笑みを浮かべる。
早智 「ケンちゃんと、満さんが迎えに来るそうです」
(来るの遅いっつーの。もう終わってるっつーの)
そして早智は置けるタイプの手鏡をバッグから取り出し、テーブルに置くと、
束ねていた髪をほどき、淡い桃色のリップを唇に塗り直す。
続けざまに揺れるとキラキラと光るピアスをつけた。
私にもう一度、恋心なんて甦るのだろうか
早智 「男の人って揺れるものに女らしさを感じるらしいです。なんででしょうね。追いかけたい本能があるのでしょうか。掴みたいけど、掴めない的な。すみません、出典は忘れましたけど」
キリコ 「早智ちゃんっていつも出典あいまいだよね。ロジカルなようで」
早智 「キリコさん鋭い。出典のあいまいさは学生時代からゼミの先生によく指摘されていた点です」
(この子、いつもは鉄仮面みたいなのに、彼氏の前では頑張ってるんだよね。昔はそういう女、大キライだったけど、今は可愛く思えるわ)
黒ぶちの眼鏡を外し、鏡に向かって笑顔の練習をしている早智を微笑ましく見ていると、動画に飽きた奏太が走り寄って来た。
奏太 「かーして」
手鏡を取ろうとした奏太の動きに素早く反応する私の手が、奏太より先に手鏡を取る。
それはまるで修行を積んだ武術のような速さだが、育児をしていれば自然に身につく。
キリコ 「ダメ!割れたら大変だよ!」
大声を出しながら手鏡をテーブルに置くと、
そこに疲れた顔の自分が映り込んだ。
風呂上りに手早く乾かしたいという理由でショートになった髪の毛。
手入れはされておらずボサボサで乾いている。
息子の機嫌に振り回され、ゆっくりメイクができるわけもなく、
とりあえずBBクリームを塗っただけの顔。
のっぺりとして色気がない。
常に息子を追いかけるためにベストでいようと、ただ楽なだけの格好。
それが今のわたし。
奏ちゃんのママ。
早智「すみません、マスカラ塗り直すので」
早智に手鏡を取られ、一瞬の悪夢から醒めた。
(…私は今、育児真っ只中でいろいろ大変なんだ。…忘れよう。忘れよう)
小さく頭を振りながら、目の前の春爛漫な早智を見る。
(好きな人の前で可愛くいたいって…どんなだっけ? もう何年も前にどこかに忘れてきちゃった気がする)
私はふっと息を吐くと、窓の外に見える散りゆく桜を見つめたのだった。
もうすぐ、メンズ二人が迎えにくる。
早く家に帰って、一休みしたい。
一休み、したすぎる……。
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