1998年5月、私たち家族が暮らしていたインドネシアで大暴動が起きた。死者は千人を超え、激しい略奪と破壊が街を襲った。
「戦争が起きたのかい?」
日本でニュース映像を見た母親が大慌てで国際電話を掛けてきた。
ガソリンスタンドが爆発して黒煙を上げ、確かに戦争みたいだ。在留邦人は先を争うように日本へと緊急帰国していく。臨時便が何便も飛び、さらに自衛隊機による邦人輸送すら検討されていた。
そんな異常事態だったが、私たち家族はインドネシアに留まることにした。
「インドネシアは私の愛する母国。こんな酷い状態だからこそ、私は残りたい。母国を見捨てて外国に逃げることなどできない。」
インドネシア人である妻の愛国心を尊重したかったからだ。また、私たちの住む郊外までは暴動は及ばないという妻の判断を信じることにした。
平和ボケの日本人である私は、ただオロオロするだけだった。生まれて初めて生命の危険を感じた。
玄関には厳重に鍵を掛け、武器になりそうな包丁類を傍らに、夜通し来襲者を警戒した。最悪の場合でも、妻と子どもだけは守り通そうと悲壮な決心をしたものだ。
暴動は二日ほどで国軍によって鎮圧され、無残な焼け跡を晒す街は死んだような静けさの中に取り残された。
国軍司令官は「もとの生活に戻るように」と訴えるけれど、平穏な日常生活は永遠に来ないのではないかと誰もが不安でいっぱいだった。とても仕事どころではない。自宅待機という失業状態である。
子どもたちは大喜びした。父親がずっと家にいるというのだ。四歳と三歳の幼子にとっては、暴動も装甲車も国外退避も関係ない。自分たちの夢のような世界で楽しい時間を過ごせるのが一番なのだ。
私は子どもたちと遊んだ。一日じゅう遊べるだけ遊んだ。まだ自由に外を出歩ける状態ではないので家にいるよりなかったが、子どもと遊ぶことに全エネルギーを使おうと開き直って毎日を過ごした。
そうすることで、少しでも不安を忘れようとしていたのだ。
庭を走り回り、一緒に歌を歌い、絵を描く。新聞紙でバットとボールを作って野球をする。枕とクッションを並べてベッドをロケットに変えて宇宙旅行に出かける。それから、何冊も何冊も絵本を読んだ。
しかし、無邪気な子どもたちといくら遊んでも、不安の影は消え去ってくれない。治安の悪化は致命的で、日本人相手の仕事をしている身としては経済的打撃は大きかった。
日本人がいない状態では、仕事は無いのだ。じっと耐えるしかないと頭では分かっていても、精神的に苦しい日々が続いた。
そんなある日のことだった。四歳の息子と三歳の娘が庭を歩き回りながら歌を歌っていた。自然に湧いてくるほほえみを溢れさせて、二人で声を合わせて歌っていた。
あおいそらと
おかあさんとおとうさんがいれば
それだけでいい
大好きなアニメの挿入歌の歌詞を替えて歌っている。同じフレーズを何度も繰り返しながら、子どもたちは楽しそうに庭を歩き回っていた。
ハッとした。
そうだった。愛する人がそばにいて、一緒に生きられるだけで幸せではないか。妻と子どもがいれば、それだけでいいはずだ。
沈み込んでいた父親に聞かせるかのように、子どもたちは元気よく何度も歌った。生きるうえで必要な楽天性を決して手放さない子どもたちがそこにいた。生きる力に満ちた、人間が本来あるべき姿がそこにあった。
私の心に巣くっていた悲観の塊が溶けていく。子どもたちが歌うとおりだ。家族は健康で、愛し愛されながら一緒に暮らしている。それだけでいいんだ。
どんなに激しい嵐が襲ってこようとも、いつの日か必ず青空は広がる。
永遠に続く雨など、この世には無いものだ。
あれからは無我夢中で暮らした日々だった。道のりは決して平坦ではなかったけれど、なんとか生活を維持することができた。
おそらく、一日に四百回は笑うという子どもがすぐ横にいたからこそ、私は苦労を乗り越えられたのだと思う。たとえ一日に十五回しか笑わない大人でも、無邪気な子どもに接していれば、自ら笑みが浮かび、心が軽くなるものだ。
辛いことがあって落ちこみそうになる時は、子どもたちがあの日に歌っていた歌を思い出すことにしている。そうすれば勇気が湧いてきて、今日もまた頑張って生きていこうと元気が溢れてくる。
子どもが教えてくれた人生の指針。
生きる勇気を与えてくれた歌を私は一生忘れない。
ライター:道産子