我が家は夫婦と2歳息子と1歳娘の4人家族。
共働きのため、子どもたちは保育園に通っています。
今年は初めての運動会。
ダンスや競技にと、まだ小さい2人が頑張る姿を見てたくさん感動した1日でした。
ただ、2歳息子が「かけっこ」に出た時。
雰囲気に飲まれ、スタート時に泣いてしまった息子。
そのせいで走るのが大幅に遅れ、ビリでゴールすることに。
その結果を見て「よく最後まで頑張った!」と思いながらも、同時に浮かんだある気持ちに自分でも驚きました。
「ああ、また、比べられるのか…」
息子には1歳上の3歳の従兄弟がいます。
その子は運動神経がとても良く、2歳の時にはすでにサッカーのドリブルや、大人とのキャッチボールをしていました。
会話もしっかり成立していて、どうやら発達が同世代の他の子よりも早いようです。
その甥っ子と1歳差で年が近い我が息子は、親戚たちからいつも比較されます。
子どもが2人いれば成長を比べたくなる気持ちもわかるし、悪気は無いのだと思います。
ですが、比較されることで「できない」ことを指摘されたような気持ちになることも、しばしば。
気になりはしますが、成長は子どもそれぞれだということも分かっているつもり。
なので、なるべく気にしないように努めていました。
子どもたちの運動会が終わった次の週、親戚の集まりがあり、自然と話題は運動会に。
運動神経のいい甥っ子は、かけっこでダントツ1位。
「負けないようにがんばったんだよ!」と笑顔で話していました。
一方、ビリだった我が家の息子。
それを知った親戚の一人が、「1位とビリかぁ。そりゃ、残念だったわね。」と一言。
もしかすると、息子と私の気持ちを推しはかっての、励ましの言葉だったのかもしれません。
でも、私の頭の中では、息子の結果が否定されたような気がしてしまいました。
そして、「残念だったわね」という言葉が、頭からこびりついて離れませんでした。
私は笑顔でやりすごしながら、「ああ、やっぱり知られたくなかったなぁ」と思いました。
そして、同時に「息子が、もっと運動ができれば、こんなこと言われないのに」と思ってしまったのです。
不安や緊張で涙が出ているのに一生懸命かけっこを頑張った息子。
最初こそ泣いてはいましたが、かけっこを終えた後は、ほっとしたのか満面の笑み。
その姿には母親として胸を打たれるものがありました。
なのに、それについて親戚に比較された時「もっと息子が運動ができれば何も言われずに済むのに」と思ってしまった私。
一番大切にしたい子どもの成長よりも、他人の目が気になった自分に強い罪悪感を覚えました。
私の理想とするような母親なら、「そんなこと気にしない!うちはうち!」とおおらかに笑い飛ばすべきなのに、と。
ビリでもなんでも、精一杯頑張った息子を、何を言われても肯定できる母でいたかった。
親戚の言葉に動揺なんてしたくなかった。
そうできない自分に失望し落ち込みました。
そして気持ちが落ち着いてきて、自分の感情と向き合って2つのことがわかりました。
1つは、自分が”周りの目を気にしすぎている”ということです。
周りの何気ないひと言に委縮し、順位を気にして、たとえ心の中のだけでも、息子を責めてしまったこと。
いいも悪いも他人が決めるものではなく、自分が決めることです。
子ども自身が、納得していればそれでいい。
子どもが年齢を重ねるにつれ、比べられるシーンはこれから増えていくかもしれません。
でも、これからは、子ども自身の成長や努力を大切にしていきたいと思いました。
そして、もう一つ気付いたのは”理想の母親像に囚われすぎていた”こと。
親戚の集まりで比較されるのがイヤでも、気にせず、笑顔でいなければならない。
そんな風に、「○○しなければならない」で自分を縛っていた私。
でも、大切にしたいものが脅かされるなら、そこにこだわる必要はありません。
動揺してもいい。
何より大事なことは、子供なりの努力をみとめて、成長をまっすぐ喜べること。
理想の母親像に拘ることで、自分を苦しくしていたと気付いたのです。
思い返すと、理想像である「何があっても動じない、いつも笑顔の母親」でありたいがために、これまでも、たくさん自分の気持ちを見ないふりをしてきました。
自分が疲れたりイライラしたりしていても、子どもには笑顔で接しなければならない。
そんな風に思っていました。
そこから外れてしまった時は必要以上に罪悪感を覚え、自分を責めていました。
でも、そんな弱い自分だって別にいい。
そう思えるようになってから、子どもたちに対してもおおらかに構えられるようになりました。
子どもの前では笑顔じゃないと、と思っていた時よりも笑顔が増えた気がしています。
今回は、自分の思いこみに気付くきっかけを、かけっこでビリだった息子がくれました。
育児って本当に学びが深いなあと思ったある秋の出来事でした。