長女は激怒した。
かのウソつきのママを糾弾せねばならぬ。
「次女ちゃんはどうしたのっ!」
「どうして一緒に帰ってこないの!」
「どこに置いてきたの?」
「ママのウソつき!」
長女には難しい話はわからぬ。長女は幼稚園の年長さんである。
そして産まれたばかりの妹の帰宅については人一倍敏感だった。
いや、そんなこと言ったってさ。
「次女は心臓のお病気で」
「しばらくは点滴をつけて入院しないといけなくて」
「NICUっていう小さい赤ちゃんのお部屋に入院するからママと帰ってこられない」
ってママ言ったよね?
あと誰がウソつきやねん。
そして長女は憮然として
「クリスマスには連れて帰ってきてね!」
そう注文をつけた。
ハイ、先生に聞いてみます。
NICUに我が子を入院させているママは、わが子を病院に残して退院した後、場合によっては母乳パックに入れて冷凍した『冷凍母乳』を保冷バッグに入れて、病床の我が子の元に日参する。
母子周産期センターがあるような大きな病院で、保冷バッグを片手にフラフラとおぼつかない足取りで歩く女の人がいたら、それはNICU児の母かもしれない、高確率で。
そしてこれは3人目を産んだばかりの39歳(当時)の体にはかなり応えた。
貧血上等。
あと腰も痛い。
色々満身創痍。
でもそうも言っていられない。
何しろ生まれたばかりの我が子は、一人、NICUで頑張っているのだから。
妊娠22週目に発覚した心臓疾患を予め告げられて生まれたこの次女は、産後即、何かしら手が打てる状態では無かった。
退院後のNICU通いの初日、主治医のコロボックル先生ことM医師が
「次女はいつ連れて帰れるんでしょうか」
と、遠慮がちに聞く私に
「新生児は健常児でも肺高血圧という状態になっています。この状態の今は心臓の手術をするのにベストな状態とは言えません。」
「1度目の手術をするなら、この状態を脱した生後1ヶ月ごろになります」
命をつなぐ点滴を24時間持続しているので、次女はまず1度目の手術をクリアするまで自宅に帰宅する事が叶わない。
最低でも1ヶ月は手術を待つ事になると告げられた次女は、クリスマスどころかお正月にも自宅に帰る事が出来ない。
先天性の心臓疾患を持って生まれているとは言え、運良く39週まで十分にお腹で育った3154gという次女の体躯は、低体重児ちゃんの多く入院しているNICUにあっては周囲のママの度肝を抜く大きさだった。
左手の点滴と鼻の経管栄養のチューブが無ければ、本当に健康な赤ちゃんに見えた。
実際は長女よりも、私が次女を連れて帰りたかった。
子ども達3人とクリスマスやお正月を過ごしたかった。
何しろこっちは産後メンタル崩壊中な上、貧血腰痛体調不良の真っただ中。
コロボックル医師に丁寧に説明された“今後の予定” は産後すぐの母を、物凄く暗い場所に突き落とした。
妊娠中に次女の病気が分かった時『無事に産めさえすれば』と思っていた私は、産むことはスタートでしかなく、実は産んでからの入院生活と手術を続けるこれからこそが本番だという事を、全然わかっていなかった。
次女の身体には点滴や心電図、管とコードがつながれていて、抱き上げるとすぐにそれらが絡まってしまう。
「あらあら、ママ大丈夫?」
そうナースが飛んできてしまう状態の次女を、力なく眺めた。
私は認識も覚悟もとても甘かった。
次女は落胆する母など気にすることなく、新生児にありがちなものすごくガッツ石松な顔面でぐうぐう眠っていた。
そんな暗黒面に墜ちた私は、その暗いメンタルのまま、自宅の部屋の隅に灯りもつけずに体育座りをして内省して
いたかったがそうする訳にもいかない。
何しろ、このガッツじゃなくて次女には兄・長男(当時8歳)、姉の長女(当時6歳)がいる。
午後の面会時間いっぱい次女の傍らに付き添っていると、時計は16時を回ってしまっている。
まずは、学校から帰宅しているはずの息子の安否確認のためにキッズケータイに電話をし
「…出ないよ」
息子はケータイ を携帯しない男として今でも名を馳せていて、まず着信に気がつかない。
携帯電話の存在意義とは。
仕方なく、長男の安否は現地自宅で確認するとして、その辺で嵐のように夕飯の食材を買い、病院とは自転車で5分の場所にある幼稚園に長女を迎えに駆け込んで行く。
尚、産後の退院1日目で自転車を乗り回していた事に関しての質問は受け付けません。
長女は次女のNICU入院時代、毎日幼稚園の延長保育に預けられていた。
延長1時間100円という破格の料金で、私は今でも幼稚園に足を向けて寝られない。
ちゃっかりもので順応性に富む長女は延長保育を、普段遊べない他学年の子と遊べる楽しいものとして考えて、割と機嫌よくエンジョイしてくれていた。
その点は助かったが、お迎えに行くと
「次女ちゃんは?」
「先生次女ちゃんおうちに帰って良いって言った?」
と聞かれて閉口した。
それも毎日。
このメロスはしつこい。
クリスマスまで次女を連れて帰らなかったら、ママ磔刑に処されちゃうんじゃないかしら。
そして毎回
「だからね、お薬の点滴があるからおうちには帰れないんだよ」
「クリスマスもお正月もちょっと無理なの」
そう説明しても
「で?今日はどうだった?」
と聞く。
この「ワンチャンあるで精神」は一体誰に似たのか、本当にしつこかった。
幼稚園と小学校が終業式を迎え、いよいよクリスマスが迫ってくると、長女の
「今日はどうだった?」
「おうちに帰れる?」
という帰宅要求は苛烈さを増していた。
挙句の果てにサンタさんに
「じじょちゃんをおうちにつれてきてください」
という手紙まで認めていた。
30年物の換気扇の汚れだって、ここまではしつこくあるまい。
幼稚園の冬季休暇保育に預かってもらっていた長女は、その日も私に
「クリスマスの日には帰ってこられる?」
を繰り返した。
いい加減連日のNICU通いと、腰の痛みとあと、夕方まとめて片付ける家事と、毎日三時間毎の夜間の搾乳に疲れ果てていて、もうこのやり取りを続けるのがつらかった私は
「じゃあ一度、次女ちゃんのところに寄ってから帰ろうか?」
長女にそう提案してみた。
それで一度現地を、あのサンタどころか猫の子一匹侵入を許さないNICUの鉄壁のセキュリティを見せてやれば、サンタだって次女の獲得は難しいと納得してくれないか。
そう思い、幼稚園の帰りにNICU の扉の前まで長女を連れて行った。
NICUは小児病棟の自動ドアを解除し、更に二つ重たいスチールの扉を開くシステムになっていて、そうやすやすと外部者を入れる仕組みになってはいない。
長女はNICUのクリーム色の扉の前で
「これは入れないの?」
「うん子どもとか、関係の無い人はダメなんだよ」
「サンタも?」
「サンタも」
そう私と会話をして本気でうなだれ、しくしくと泣き出してしまった。
この娘は泣き出すと長い。
しかし、さすがに可哀想な事をしてしまった。
バツが悪かった私は、そこを通りかかった赤い服のドクターを、それは手術室やカテーテル室などで医師が着用する、赤というよりはえんじ色のドクタースクラブだったが、それを指さして
「でもホラ、長女ちゃん、サンタさんがお医者さんのフリしているからさ、クリスマスには間に合わないけど、次女ちゃんをそのうちおうちに返してくれるよ!」
「だから泣かない、泣かない!」
大変苦しい作り話だが、そう言って慰めた。
サンタに仕立て上げた若い多分病棟医の貴方、申し訳ない。
でも小児科医が次女の心臓に機能的な根治をいずれプレゼントしてくれるなら
あながち間違いではないじゃないのと、その時の私は開き直った。
そしてぐずぐずと涙と一緒に鼻水を垂らす長女の鼻を拭いてやった。
サンタクロースが次女をクリスマスイブの夜に自宅にデリバリーするような奇跡は、起こらなかった。
当然だ、そんなことがあったら誘拐だ。
クリスマスの朝、長女には『シルバニアファミリー森のようちえんセット』がサンタから贈られた。
現物を見てニコリともしない長女に、サンタこと夫は影で泣いていた。
クリスマスには間に合わないって言いましたやんか。
次女が帰宅を果たすのはそれから年が明けて、長女が幼稚園を卒園し、更に小学校に入学した4月のこと。
その退院の少し前、次女が無事に手術を終えた頃、長女は手紙を書いた。
そしてこれを次女ちゃんを手術した先生に渡してほしいと言う。
手持ちに、いくらでもディズニープリンセスの可愛いレターセットがあったのに、わざわざ大人っぽい無地の白い封筒と便箋の手紙だった。
「先生、こちらを」
と白衣のポケットにねじ込んだら金銭の授受と間違われそうな形状のお手紙。
そこには
『 K先生
じじょちゃんを
たすけてくれて
ありがとうございました
これからもよろしくおねがいします』
とあった。
あのとき、困り果てていた私の作り話を長女は信じたのか。
細身で長身のサンタとは逆方向スタイルの執刀医を、本当にサンタと思ってあの手紙を書いたのか。
そして、あのしつこいほどの次女の帰宅要求は何だったのか。
今もちょっと、わからない。
いつか、聞いてみたいと思う。