抜け落ちた子どもの乳歯を、どうしたらいいのかわからない。
皆さん、どうされているんだろう。
長女はもう小学校2年生なので、すでに数本の乳歯が抜けている。
なんだけれど、その1本たりとも今、手元に残っていない。
最近では、抜けた歯をきちんと取っておくための、かわいらしい小箱が売られているらしい、というのは知っていた。
知っていはいたんだけれど、その小箱もインターネットでちょこっと調べただけで、いろんなデザインや種類が用意されていて、動揺した。
どれを選べばいいやら、ちっともわからない。
人生で、人の歯を仕舞うために、箱なんて買ったこともなければ、箱に仕舞われた歯を見たこともないのだし。
どれ、とレビューを読んでみたら、なんと言ったらいいのか、乳歯へ向けた情熱的な何かに、なんだかちょっと気圧されてしまった。
だって、これは、成長?代謝?なんだかよく分からないけれど、一般的な生理現象の一部であって、彼らの努力とか、忍耐とか、鍛錬とか、なにひとつ関係のない世界で起きていることなのに。
そんなに、胸を高鳴らせて仕舞うのでは歯のほうにも、ちょっと意味を持たせすぎて申し訳ないような気がしてくる。
それは、切られた爪と、抜け落ちた髪の毛と、いったいなにが違うんだろう、と情緒が欠けた私は思ってしまうのだった。
子どものあらゆる側面に、メモリーとかパッションを持つことは、それはそれは素敵なことだと思うし、そういう発想はとても心が清いな、とは思うのだけど。
「身体から不要になったものが、排除されただけでは」、というこざっぱりとした思いと、「いえいえ、昨今では子どもの抜けた歯は大切に仕舞われて、かわいらしい小箱に収納されるんです。それが新しい時代、新しい風ですよ」、という思いが、交互にやってくる。
その証拠に、ただの歯では、と思っているくせにきっと、もしも母に「捨てたらいいじゃない」と言われたら、ムッとするであろうことも容易に想像がつく。難しいのだ。
そんな風に、抜けた歯に対する、明確な方向性を示すことができないまま、長女の歯は、一本、また一本と抜け落ちて、立派な永久歯もいくらか生えてきた。
抜けた歯は、長女がお友達から聞いたらしい「トゥースフェアリー」という儀式をなぞって、最後のお役を終えた。
トゥースフェアリーというのは、その名の通り歯の妖精。
枕の下に抜けた乳歯を仕込んで寝ると、夜寝ている間に妖精が歯を頂く代わりに、1ドルだか1セントを置いていってくれるというもの。
お友達宅では、現金はちょっとロマンがないよねということで、かわいらしいヘアゴムやヘアピンを置いていってくれる妖精、になり代わっていた。
それをそのまま踏襲して、我が家も長女の歯が抜けるたび、枕の下に乳歯を忍ばせ、長女が起きる前に、こっそり小さなヘアゴムやヘアピンと交換した。
さて、儀式を終えたその歯を、いったいどうしたらいいんだろう、と小箱を持たない私は立ち止まってしまった。
昨日まで、自分以外の人間の身体の中にあったものの行く末を、急に委ねられるのは少々荷が重い。
今から、くだんの小箱を買うための決断をするには、無粋な私には時間が足りない。
でも、この歯をいったんどうにかしたい。
捨てるという、これきり後先がないことをする勇気もなければ、抜け落ちた歯に深い意味を持たせることもできずにいた。
ここで、私の悪癖が出る。
伝家の宝刀、「とりあえず、その辺に置く」を抜いてしまった。
アルミホイルでくるんで、キッチンの片隅に、そっと置いた。
知性のある方は、もうお気づきかもしれない。
そのまま、その乳歯はどこかへ消えてしまった。
そして、続いて抜けたいくつかの歯も、とりあえずその辺に置いたばっかりに、先日ふと気がついたときには、1本も手元になかった。
あの歯たちは、いったいどこへ消えてしまったんだろうか。
我に返って、なんだかとってもさみしいような、長女に申し訳ないような気がした。
こんなことなら、四の五の言わずに、あのかわいらしい小箱を買っておくべきだったのかもしれない。
そして、今これを書いていて、ようやく気がついたのだけど、長男の歯も、すでに3本も抜けているのに、手元に残っているのはたったの1本。
2本の行方は、もう知る由もなく、残された1本は、今、手頃なとても小さいタッパーに入れられてある。
このままではこの1本だって、過去に失くした歯たちと同じ道をたどるに決まっている。
なんとかしなくっちゃ、と思う気持ちはあるのだけど、けれど、もしここで、あの、歯用の素敵な小箱を我が家に導入したら、この先末っ子も含めて、仕舞われる歯の本数に大きな隔たりができてしまう。
成人したとき、「わたしが、赤ちゃんの時の写真だけ、少ないじゃない」みたいに、「私の歯だけ、少ないじゃない」と、遺された歯の本数で、愛情を測り違えたらどうしよう、とまた足踏みをしてしまう。
ならばいっそ、誰の歯も残さないのが得策では、と思うのだけど、まだお口の中でしっかりしがみついている歯に関して、そのうち捨てると、今から決めてかかるのは、なんだかとっても、さみしい気持ち。
そう考えると、私たちが子どもの頃、屋根や地面に向かって、抜けた歯を投げるって、とっても能天気で健やかなお別れのしかただったなと思う。
あのくらいのさっぱりとした気持ちで、抜けた歯と向き合えたらいいのだけど、いったいいつからこんなに歯に対して複雑な思いが芽生えてしまったの。
にしても、子どもたち、成人したその時に、「これが君の乳歯だよ」って差し出されて、どんな気持ちがするんだろう。
ていうか、その乳歯、あげるものなのかしら、それとも、親が持ち続けるものなのかしら。
いろいろと謎が多い歯の行く先と、それに対する心の持ちよう。
なんだかとっても荷が重い。