子どもたちがもらったお年玉をどうするべきか、実はずっと考えていた。
とりあえず貯金、というていで銀行に預けていたんだけれど、なんだかちょぴりもやもやする。
というのも、せっかく親戚のみなさんからいただくのに、子どもたちはもらったその場で「とりあえず」という感じで、私の所へ持ってくる。
ご挨拶のように「ありがとう」と言いはするものの、中身の価値がもうひとつ響いていない。
ポチ袋が好きなキャラクターだったりすれば、わあと喜ぶけれど、それも一瞬。
これは少々味気ないな、と小さく思っていた。
彼らにとって、お年玉は、実感の伴わない紙と封筒でしかないのかもしれないな、と思った。
お金だって使わなければただの紙だし、ただの紙ならお絵かきができる広告の裏のほうが、よほど楽しいというもの。
子どもの頃、お年玉が嬉しかったのはなぜなんだろう、と記憶をたどったら、「やはり使った記憶」に結びつく。
お年玉をもらったら、両親がショッピングモールへ連れて行ってくれて、好きなものを買っていいことになっていた。
今の子どもたちより少し大きい、小学校中学年くらいの記憶だけれど、確か父にも母にも干渉されずに、姉とふたりでモール内の好きなファンシーショップへ入って、あれこれ物色してどきどきしながら買った。
とっても小さな手鏡とか、メモ帳とか、ほんとうにささやかなものだったけれど、とってもわくわくしたのを覚えている。
お年玉をもらったら、わくわくすることが待っている、と思えば頂くお年玉にもわくわくできたし、楽しみが増えたものだった。
よし、今年はお年玉を「使う」ことにしよう、夫と話してそう決めた。
子どもたちにさっそく伝えると、想像以上に驚いていた。
「使っていいの?」
「なにか買うってこと?」
「なにを買ってもいいの?」
普段、お手伝いをしてももらえるのは10円か、ものすごくよくても、100円が精いっぱいなのに、突如、「紙のお金」を使っていいとなると、相当な興奮だったらしい。
お年玉ぜんぶはさすがに「大きなお金」だから、と説明して、今回はひとりあたり、多くても5千円程度のお買い物にしようと、みんなで話し合って決めた。
子どもたちは、もちろんわくわくしていたけれど、私も実はとってもわくわくしていた。
それぞれなにを買うんだろう、使い方にも選ぶものにも性格が出るような気がして、とっても楽しみだった。
さて、ショッピングモールへ着いて、まずはおもちゃ売り場を物色した。
真っ先に心が決まったのは、真ん中長男。
彼だけは行く前から、「ゲームのソフト」の一点張りだった。
先のクリスマスでは、念願のゲーム機を手にした息子。
そのソフトがほしい、と、お年玉を使う話をしたときから目を輝かせていた。
お店で実際に見て、ミニゲームがたくさん入った、家族みんなでできそうなものを選ぶ。
「みんなでやろうね」と、大張り切りの元気な笑顔でレジに並んでいた。
もちろん、帰宅早々、みんなで楽しく遊んで、彼もとっても満足そうだった。
長女は、なにかにつけて少し発想が個性的なので、まったく予想がつかなかった。
ショッピングモールに着いて、ソワソワにこにこしながら、あちこちをうろついていた長女が、目を輝かせたのは、まさかのスーパーボールすくい。
ゲームセンターの一角に、スーパーボールをすくえる小さなゲームがあって、それを心行くまでやりたかったらしい。
ゲーム機を覗き込むと、長女好みの、キラキラでパステルカラーのスーパーボールが、ぐるぐる回っている。
いつもは1、2回しかやらせてあげないもんねぇ、なるほど。
「一度はバケツ一杯のプリンを食べてみたい」みたいな願望にも、似ているかもしれない。
けっきょく、スーパーボールすくいを4、5回やったあたりで気が済んだらしく、そのあとは筆箱と鉛筆と駄菓子を数個、ジュースを1本買ってフィニッシュ。
帰宅した長女は、両手におさまりきらないほどのスーパーボールを並べたり置いたりして、いつまでもにこにこしていて、とってもかわいらしかった。
さて、末っ子次女。
なんでもかんでも、ねーねとにーにとおんなじようにしたいお年頃。
当然、私も「お買い物」をするのだと、張り切っていた。
まだ、大きな数字は分からないのだけど、とりあえず好きなものを、なにか探してみようと手を引く。
あれこれ眺めた結果、末っ子が選んだのは、彼女の手のひらに乗るほどのちいさなぬいぐるみと、お布団のセット、それと、同じキャラクターのキーホルダーとフライドポテトの(!)においがするという消しゴム。
そのミニマルなチョイスがかわいすぎて、全私が発狂寸前になる。
お会計も、姉や兄と同じように自分でしたいらしく、付き添うおうとすると「ママ来ないで」と、突き放されてしまった。
身長100センチが、きちんと列に並んでいる後ろ姿が、可笑しくてどこまでもかわいかった。
帰宅した末っ子が、その小さな小さなお布団に、小さなお人形を寝かせている姿も、もちろん途方もなく尊くて、お年玉、最高……と心から思った。
今年はウィルスの影響もあって、遠方の祖母からは、書留でお年玉が届いたのだった。
お礼の電話をするにしたって、彼らにとって何の実感もない紙切れではなんだか形だけになってしまうような気がしたのも、お買い物へ繰り出した理由のひとつだった。
それぞれが買ったものを手にして、ありがとうの動画を撮って、母に送った。
母のほうで、どう感じたかは分からないけれど、子どもたちのほくほくした表情を見せられて、よかったと思っている。
来年以降のお年玉も、使う楽しみを知ってから頂くと、また喜びも大きくなるかもしれない。
買ったものを見せ合う子どもたちは、とっても満ちていて、幸せそうだった。
お金って、とても柔らかいものだから、ちゃんと使って手触りで覚えていくこともたくさんあると思っている。
自分の手で確かめて、お金とよい付き合い方をしてくれたらいいな、と思う。