大人と同じ形のお洋服の生活。
市場に前開きのロンパース式の洋服が極端に減る現象は、大体サイズ90位から本格化すると思う。
あくまで私見ではあるけれど、ウチはそうだった。
でもそうやって、人によってはツナギの服からだんだんとセパレートのお洋服に移行していくあの季節。
日に一体何回留めて外したものか、もう記憶にないあのスナップ式のお洋服からワンピースやデニム、そしてTシャツ。
突然お兄ちゃんやお姉ちゃんになったように見える我が子に嬉しいような、もう赤ちゃんじゃなくて幼児になって行くんだなあという寂しいような感情が胸の中に入り混じるこの時期。
それが実は『子ども服』と言う迷宮への入り口でもある。
何それ怖い。
まだ長男が乳児だった時代、私は小さな幼児サイズの洋服を買うのが、純粋に好きだった。
90㎝、95㎝、そのあたりのサイズの洋服は、まるで大人の服をそのまま小さくしたようで、あのフォルムを本当に可愛いと思っていたし、ベビーからトドラーサイズの子ども服売り場は、今でもそこにいるだけで心が踊る。
長男が1歳を少し過ぎてよちよちと歩み始めた時期、カバーオールやロンパースではない、デニムのハーフパンツや、可愛らしいTシャツを着せて外に連れて歩く事をとても楽しみにしていた。
子ども服は、いいものはそれはそれは素敵なお値段だけれど、反面、お手ごろ価格のものは、ファストファッションのものも沢山あるし、何といっても俺達には某ウサギが目印の子ども用品専門店がある。
そこでいくつも『少し位は汚しても構わない』と思い切れるお値段の洋服を買っては日に何度も着替えさせていた長男1歳の頃。
何しろ相手は、お茶を飲ませれば全て床にこぼし、水たまりを見ればそこに飛び込む生き物だった。
「じゃあアレを着ようか、次汚したら今度はアレね」
小さな子の服は、洗濯しても干してもそんなにかさばらない。
まだ子どもが1人だったこの時期の私は、子どもの洋服の洗濯や着替えにとても鷹揚だった。
そして子どもが3人になった今、そんな自分をすっかり忘れ果てた。
下手をすると日に洗濯機を3回まわす生活でそんな心境になれたら、それは多分仏。
そう。洗濯さえも楽しめていた時代はよかった。
この幸せな子ども服の時代に暗雲が立ち込めたのは、長男が2歳になった頃。
2歳前後の小さなニンゲンには恐ろしい時期がある。
それはこの世の全てが嫌になる時期。
世界に生まれて2年しか生きていないし、毎日している事と言えば、寝るか食べるか遊ぶかなのに、何がそんなに嫌なのか、この世のすべてを否定しないと気が済まない厭世観に満たされた季節。
イヤイヤ期。
この頃、長男はイヤイヤと共に野生に還ってしまっていた。
「長男君、お洋服着ようか」
「イヤ!」
それが毎朝の定型の挨拶になった日々、長男はいつもパンイチならぬオムイチで家中を闊歩していた。
どうしました、何ですか、ウチは野生の王国ですか。
あまりにも『イヤだ僕は服なんか着ないんだ』と強固に主張する長男を説得する事が正直面倒くさくて、つい家では裸の王国の建国を許していたものの、流石に外でそれをやられるとよそ様に二度見ならぬ三度見されてしまう。
この時期野生の王国の王がお召しになっていたのは、電車がプリントされているTシャツ達。
新幹線、特急、各社私鉄。
丁度この長男が2歳位の頃、その手のコラボTシャツがファストファッションブランドのお店に出回り始めていて、電車好きの長男はひたすら同じ電車のTシャツを着ていた。
そのうち1枚は何となく捨てられなくて未だ手元にあるけれど、まあよく着倒しましたねという位に色あせてしまっている。
こんなの今3歳の次女は絶対に着ない。
見せた瞬間にきっとフッと鼻で笑うと思う。
長男の思い出の古式ゆかしい0系新幹線のプリントされた、染みだらけのTシャツなんか。
そうやってほぼ同じ服しか身にまとわない幼児期を経て迎えた学童期、長男は『服なんかどうでもいい期』に入った。
子どもの中にはとてもお洒落で日々のお洋服に拘る子もいるだろうが、対して一切のこだわりの無い子もいる。
でもウチの長男のそれは、色がとか柄がとかブランドがとかそういうものがどうでも良いというレベルのものではなくて、イヤそれもかなりどうでもいいみたいなんだけど何より
「ねえ、それ後ろ前じゃない?」
とか
「裏返しに着ていますっていうご自覚は?」
というもう注意なんだか驚きなんだかわからない言葉を長男に投げかけないといけないというモノ。
もちろん靴下の柄が左右で違う事なんてデフォルト、何なら真夏にはTシャツを脱ぎランニングシャツにハーフパンツ姿で下校する。
当時は平成、その炎天下に突然の裸の大将。
昭和か、昭和なのか。
そうして次にやって来た、小学3年生以降の『黒か、紺か、グレーを着倒す』時期。
それは長男の好みの問題もあるけれど、何よりこの時期の小学校ではアレが授業に導入された為だ、迂闊系小学生の宿敵『お習字セット』
別に書道にも街のお習字教室にも書道家の皆様にも特に何も文句はない、無いのだけれどあの墨汁と言うヤツ、あいつは困る。
何しろ千年前の古文書も後世に残す、その頑固に落ちない顔料をウチの長男のような子が使うとどうなるか。
結果は火を見るより明らかだった。
一度、物凄く迂闊な事に、習字の授業がある日に白地のトレーナーを着て行った長男を見過ごしてしまい、帰宅した彼を見た時は悲鳴を上げた。
朝、白地にワンポイント付きだったトレーナーが素敵なダルメシアン柄に。
長男突然の某百…匹わんちゃん。
実は世の中には、洗濯して落ちる墨汁というものもあるのらしいけれど、当時の私はそんな事ひとつも知らず、素敵なブチ柄になった息子の服は泣く泣く廃棄と相成なった。
結果、寒色の中でも更に暗い色の衣類ばかりが箪笥を占領する事になってしまう。
それか迷彩、アレはいい。
墨汁の染みも、うっかりつけてしまった水彩絵の具も、全て迷彩の中の柄として誤魔化してくれる。
難を言えば迷彩柄のボトムに黒いトップスを着せて夕暮れ時に外に出すと、周囲の背景に溶け込んで本気で見えなくなること位。
そうなると、着せるものはパターンが決まって来てしまう。
大体無地かボーダーか迷彩、それを沢山出しているファストファッションかスポーツブランドのもの。
直ぐに身体が大きくなるからと毎度ワンサイズ大きいものを買い求めながら、何となくこのブランドのこの感じのものを押さえておけばまあ大丈夫だろうと、何かを「掴んだな」と思っていた子育て12年目の最近、事件は起きた。
今、長男の身長は150㎝を少し超えた位、洋服のサイズは150㎝、モノによっては160㎝も着る。
そうなると市場にあまりにも無い、その手のサイズの子ども服が。
100㎝から140㎝位までは、同じ色柄で幾らでもサイズ展開していたはずのお洋服、それが探しても少ししか見当たらないし、何なら下着、アンタ―シャツもパンツも微妙に無い。
これはどうしてかしら、じゃあどこで長男の服を買ったらいいのかと思って嘆いていたら、その答えは夫が教えてくれた。
「それ位のサイズって、メンズのSかXSなんじゃないの」
何?メンズだと?
私は全然気が付いていなかったのだけれど、中学生位の子はもう大人サイズの服を着られる年頃なのだ。
そうか、君はそろそろもう子ども服じゃないのか、そうしたらあの新幹線のTシャツはもう着ませんか。
あの、子ども服売り場で真剣に、アレは着るか、いやしかしこれだと絶対に汚す、染みがついたら相当目立つなあと頭を悩ます事が今ひとつ無くなりつつある。
子ども服、スゴイ面倒だし大変だしと思っていたのに。
もう買わなくていいよと言われると、それはそれで、あのロンパースが箪笥から段々と無くなっていった1歳の子のママだった頃のような気持ちになる。
とても勝手だけど、なんか、寂しい。