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公開 2021年09月08日   更新 2022年09月06日

長女を「お姉さん」だと感じていた。本当は、こんなにも幼いのに。

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真ん中長男が産まれて以降、知らないうちに「お姉さん」にしてしまっていた長女について。

まだまだ、小さいことをつい忘れてしまう。


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これは、懺悔のお話。

5年前、長女4歳のお誕生日のこと。

この日の写真を見返すたびに、胸がきゅうと縮んでしまう。

あの日の私は、ほんとうに未熟でちっぽけだった。



今、我が家の末っ子が4歳。

いけないと知りながら、つい赤ちゃん扱いをしてしまう。

本人はすっかりお姉さんだと思っているので、申し訳ないことなんだけど、例えば「おすし」が「おすき」になってしまうとき、夕方車に乗ってこてんと眠ってしまうとき、童謡に合わせてくるくる回っているとき、一生懸命書いたひらがなが鏡文字になっているとき、そんな長女や長男から消えてしまった残像をみると、ついつい眉毛が下がってしまう。

ああ、まだそんなに小さいのね、と思う。

とっくに通り過ぎた、あの日の小さかった長女や長男が、目の前を横切る。

そうか、あの日の彼らはこんなに小さかったのか、と今さら気づくことのなんと多いことか。



長女が4歳。

4月生まれの彼女は、年少さんにあがってすぐに4歳になった。

その頃、すでに真ん中長男は、間もなく2歳というところ。

「お姉ちゃん」歴は、2年が経とうとしていた。


私にとって、長女はすっかりお姉ちゃんだった。

真ん中長男は、まだまだ駐車場をミニカーみたいに走ってしまうし、午後はお昼寝をしないといけない。

まだおむつを履いてもいたし、あらゆることに、それなりの介助が必要だった。

手のかからない子だったけれど、それでも長女に比べたら、彼は「赤ちゃん」で、長女はやっぱり「お姉ちゃん」だった。


これは仕方のないことだけど、長子って、ついできるようになったことばかりを数えてしまう。


首が座った、寝返り、ハンドリガード、ずりばい、つかまり立ち……赤ちゃんが、いろんなことをパタパタとできるようになっていく姿は、やっぱり眩しくて、初めての子育てだもの、それらをひとつずつ追いかけてしまう。


そうしているうちに、長女はいろんなあれこれが「できるようになった」生き物になっていって、トイレも食事もお着替えも自立した4歳なんて、すっかりめっきりやっぱり「お姉さん」だった。

幼稚園へ行くなんて、社会へ飛び込むなんて、足元にまとわりついている1歳から見れば、どうしたって「お姉さん」。



できることを、ひとつずつ数えるのが長子だとしたら、できないことを数えてしまうのが末っ子。


言えない「し」の音に、いちいち歓喜してしまうし、うまく書けないひらがなの「え」の不格好さに、酔いしれてしまう。

自称お姉さんからほとばしる、4歳の幼さをかき集めて、お姉さんの部分を直視しようとしないで、私は末っ子を幼い幼いと愛でてしまう。

成長を喜ばれた長女と対照的に、末っ子はいまだにできないあれこれが、日々の喜びになるなんて、どうしたことだ。


よく私の母が「同じように育てたのに云々」と言うのだけど、そんなことあるだろうか。

同じようになんて、できっこない。

ひとり目そうそう、「まだなんにもできないのねぇ」と愛でるなんて、人生で初めての命の塊を目の前にして、できっこない。

生命力に、日々眩暈がするようなあの強烈な日々を、そんな悠長に過ごせやしないのだ。

「できた」の感動って、初めての子育てにおいて、大きすぎる。



前置きがとても長くなってしまったのだけど、そう、長女4歳のお誕生日の話。


半年ほど前だったろうか、長女4歳のお誕生日の写真を引っ張り出してきて見て、驚いた。

そこに映っていたのは、私が「お姉ちゃん」だと思っていた、うんと幼い長女の顔だった。

私の記憶の中の長女とのギャップに、驚いた。

「お姉ちゃん」だと思っていたのに、こんなに小さかったの、と愕然とした。

まだほっぺがふっくらとしていて、毎朝登園で泣き散らかしているせいで、目が腫れている。

それでも、ケーキを前にして笑う姿がなんていじらしいんだろう、そう思うとなんだか泣きたい気持ちになった。


隣で見ていた長女が「このケーキ、ばーばが送ってくれたんだよね」と、懐かしそうに笑っていたけれど、私は長女に申し訳なくて笑うことができなかった。

あの4月、私たち一家は新居に引っ越して数日で、まだ段ボールがそこかしこにあった。

4歳と1歳を引き連れての引っ越しは、ほんとうに大変で、身も心も削られていた。

さらに、長女は登園渋りが激しくて、毎朝1時間以上泣き喚く上に、夜も激しい夜泣きをしていて、私はおそらく余裕がなかったんだろう。

それでも、お誕生日だけはどうにかそれらしくやりたいと、小さくご馳走を作って、実家から送られてきたアイスケーキを囲んで、お祝いをした。


あの日、私は、遊んでいてなかなか席につかない長女に、厳しい言葉をかけたのを覚えている。

せっかくのお誕生日なのになんてこと。

毎朝頑張って登園している、お目目を腫らした、いたいけな子に対してなんてこと。

今だったらもっとおおらかな気持ちで、声をかけられるのに。たったの4歳だもの。うんと小さい4歳だもの。

うんと小さい4歳が、懸命に慣れない生活を送っている日々の中の、たった1日の晴れの日を、もっと大袈裟なくらい盛大な気持ちでお祝いしてあげたかった。

あの日の写真を見るたび、胸が痛い。

あの日に飛んで行って、疲弊していたあの日の私をそっとお布団に寝かして、飛び切りのご馳走を作りたい。

4歳の長女を抱きしめて、「小さいのに毎日頑張ってすごいね」って言ってあげたいし、よしよしして、なでなでして、お箸を持っても、ごはんを食べても、ケーキを食べても、全部にじょうずだねって言ってあげたい。

一挙手一投足、ぜんぶを褒めて褒めて、たくさん愛でたい。

末っ子が、4歳のお誕生日を迎えたのが、半年前。

我が家の小さな末っ子が、4歳になっても、やっぱり私たちにとって小さな末っ子は、小さな末っ子のままだった。



長女は今、9歳。

すっかり物分かりがよくなって、もういよいよお姉さんでは、と思うことばかりだけれど、最近は「お姉さんになったなぁ」と思ったとき、同時に「でも今日の長女が、これからの長女の中で一番小さいのだよな」と思うようにしている。

そうしないと、私はまたきっと同じことを繰り返す。

うんと小さかった長女を、まるで大人みたいに扱ってしまった今日を後悔して、戻らない時間に嘆いてしまう。

成長はもちろん嬉しくて眩しいけれど、幼かったはずの長女を見落とすのも、とってもさみしい。

いつか彼女が中学生になった日に、いつかひとりで旅行へ行った日に、いつか結婚した日に、その時々に振り替える今の長女が、正しく小さな長女であるように、呪文のように唱えている。

「長女はまだ小さい」


※ この記事は2024年11月05日に再公開された記事です。

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