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公開 2023年05月11日  

ズボラな母がなぜ料理だけは頑張ったのか。親になった今ならわかるよ、ありがとう。

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私の母はすこし前に古希を迎え、孫にはとてもやさしく、そしてのんびりとした北陸の訛りの穏やかな『おばあちゃん』なのですけれど、昔々はそれはそれは忙しくて、そして「細かいことにいちいち構ってられるか」って人でした…。


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うちのお母さんは

うちの母は、昭和24年生まれの今年74歳。

同じ年代の女の人の中ではやや長身の163㎝、実家で一緒に暮らしている柴犬にナメられてしまう程穏やかな面立ちの人で、娘の私とは顔の作りが全然似ていない。

けれど顔の輪郭や体つき、特に世にある全てのショルダーバッグが肩からずり落ちてしまうなで肩が、私の3人の子ども達にいわせると

「おかあさんとばぁばってそっくり」

なのだとか。

母の産まれた年は西暦で言うと1949年、それは先の大戦が終わってからまだ4年後のこと。

時の首相は吉田茂で、日本は連合国軍総司令部の統治下にありましたと書くと、遠い遠い昔のことのよう。

実際に母は

「お家にお風呂がなかったから銭湯に行ってた」
「テレビは1回目の東京オリンピックの時にお父さん(私の祖父)が買ってくれたの」
「同級生が1クラスに50人いて、1学年は10クラスくらいあった気がする」

そういう、令和の今からすると隔年の感のありすぎる時代に生まれた人なので、同じ昭和生まれの私はともかく、2000年代生まれの私の子ども達(母にとっては孫)からすると、それは相当面白い遠い昔のお話しであるらしく、その子達がばぁばの「昔話」を聞きたがることと言ったらないし、一番下の次女に至っては、ばぁばを日本昔話の世界の人だと思っているのでは、だって

「お家に電気はついた?お洗濯は川でしていたの?芝刈りってしたことある?」

この前次女が真顔でそう聞いていた。
桃太郎じゃないんだから。

ばぁばの産まれた頃、ばぁばのお家には電気はちゃんときていたし、蛇口からお水も出たらしいよ。

育ちは東京、吉祥寺で暮らし、東京の丸の内なんて都会でOL(って今でも言う?)をしていたちょっと都会の娘さんだった母も、一体何がどうしてそうなったのか、縁あって私の父と結婚して北陸に引っ越し、そこに家を建てて2女1男をもうけて、その3人の子どもを会社員としてばりばり働きながら育てた、そういう人です。

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昔、お母さんは雑だった

私の育った北陸の小さな町は今、都市部に暮らす人たちが「へぇ」と、意外に思うママの就業率の高い地域だった。

その理由は、地域に農業を営んでいるお家が多く

「農家では、男も女もみな総出で働くものだから」

という説があるけれど、ごめんなさい真相は定かではないです。

ともかくそこは保育園に「入れない」ということのまずない地域で、小学校では放課後の学童保育を、小学校の向かいの児童館でもれなく引き受けてくれていた。

働くママにとても優しい環境、地元の友人に聞くとそこは今も「待機児童、なんだそれはくえるのか」という地域らしい。

しかし、どんなに子育て環境が良くても、子どもが3人もいるのにうちの母の夫であり私の父である人は、本気でなーんにもしないという人だったため、母は

「三度三度のごはんは絶対作る」

という執念に近い信念だけを持ち、それ以外は大体切り捨てているというタイプの母親だった。

だから食事はいつも美味しいものを本当に沢山作ってくれたけれど、それ以外のことはものすごく自由というか、かなり適当だった。

私は大人になるまで「柔軟剤」というものの存在を知らず、タオルは基本、自立してしまう程バリバリしているものだと思っていたし、横幅のとても広い実家の廊下の両端にはいつも白く埃がつもっていたし、普段喉が渇くと台所のシンクの洗い物の中からコップを掘り出して洗い、それでお茶を飲んでいた。

お勉強に至っては、私は母から「宿題をしなさい」とか「勉強をしなさい」と言われたことがない。

これは、母が我が子の自主性を重んじる教育方針だったとかそういうことでは一切なくて、多分そんなことをいちいち気にしている暇と余裕がなかったのだと思う。

そしてそんな母の様子を見て、今よりずっと世間知らずだった当時の私は思ったものだった。

「お母さんてずぼらだなぁ、私はああはならない」

それは、今思えば「じゃあ、おまえがやれや」って話なのですよ。

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その母が、本当はどんなにすごい人物だったのか、それがわかる日はずっと後になってからやってくる。

それは次女を出産したすぐ後のこと。

今5歳の次女は、ちょっとした持病を持って生まれて、出生後すぐにNICU(新生児集中治療室)に入院し、生後2ヶ月で手術のために小児病棟に転棟することになったのだけれど、完全看護のNICUと違って小児病棟に入院する子どもには大抵、親が付き添うことになる。

それでまだ赤ちゃんだった次女には、私が付き添うことになった。

でもそうすると

「え…じゃあ一体だれが家事をして上の2人の子どもの面倒をみるねん」

という話になってしまうのですよね。

次女が産まれたばかりの当時、長男はまだ小学3年生で、長女にいたってはまだ幼稚園の年長さんという

『お着替えは1人でできるけど、長く伸ばした自分の髪を結うことはきません。夜中におトイレに1人で行かせると泣きます』

というお年頃で、その2人の父である夫は、掃除と洗濯については、洗濯機も掃除機も家にあるのだから何とかなるけれど、料理なんかはどう頑張っても、その努力と研鑽が生来の不器用さを凌駕することが叶わず、唯一

「豚キムチなら上手に作れるで!」

という人だった。

でも子どもはそんな辛いものは食べられないし、そもそも次女は一体いつまで入院するのか分からない、会社員である夫は無期限に休みを取ることは難しいしと、八方塞がりだった私達夫婦は、ちょっと途方に暮れていた。

そこに、救世主のようにやってきてくれたのが、母だった。

当時の母は、その少し前に雇用延長して働いていた会社を退職、毎日庭の草木の手入れをしながら飼っている柴犬と遊び、それは穏やかな老後を過ごしている人で、でも同時に実家では現役の主婦でもあった。
年齢もその頃もうじき古希、だから私としては北陸の田舎から関西に呼びつけて、一体いつ退院できるのか分からない孫の入院生活に付き合わせるのはどうなのかなと

「ちょっと、しばらくこっちに来てくれへんかなあ」

とお願いすることを躊躇していたのだけれど、母は次女がNICUを出て小児病棟に移り、私の付き添い入院が決まると即、大きな荷物を両手に抱えて実家から我が家に飛んで来てくれた。

「エッ、お父さんはどうしたん?」

と聞けば

「孫の方が大事やないけ!」

とのこと。

それで「じゃあ、犬は?」と聞くと「お姉ちゃんが見てくれるから大丈夫!」ということで、その点は私も安心した。
それに父は元々神経質とは反対の性格と性質の人なので、多少荒れた家でも平気だということだったし。

それであの時は約2ヶ月、母が泊まり込みで我が家を支えてくれたのだけれど、その時の家の中というのが、もう細部にわたるまで埃ひとつないし、時折病院に届けてくれるお弁当は季節の野菜が沢山入っていて美味しいし、洗濯物はカドというカドをすべてきっちり揃えて畳んであって完璧な仕上がり。

あんなに「ママがいないと寂しいの…」と言っていた長女は、ずーっと母にべったりで、私が次女とやっと退院してきても

「あ、ママ?いたの?」

なんて案配。
この子はばぁばが帰ってから何日も泣き続け、そっちの方が大変だった。

そしてこの時私は、思い知ったのだった。

フルタイムで働きながら、毎日家事をこなし、その上で3人の子どもを、無事に成人まで育てあげた人の実力というかスキルは、当時まだ子の親としては10年程の中堅だった私とは雲泥の差、その足元にも及ばないものだということを。

そして昔「お母さんてずぼらだなあ」なんて考えていた10代の私のことを思って「なんか…本当にすみませんでした」と、心から母に詫びたことでした。

今、家で仕事をしていると、ほんのり埃の積もってしまった廊下も、適当に洗った挙句干し過ぎて固くバリバリになったタオルも、夕方にやっと取り込まれた洗濯物の小山も、かつて子どもの頃にそれを家の中で目にしては

「お母さんてさあ…」

と思っていた色々が、ちょっと忙しくなると目の前に「あ、昔お会いしましたね」なんて顔でそこに鎮座している。

でもそれはもう仕方がない、だって忙しいし細かいことを気にしていたら子ども達がおなかをすかしてしまう。

(あ、そうか、母はそれで料理最優先になったのか)

それはこうして大人になって、あの当時の母とよく似た場所に座ってみなければ、きっとわからないことだったなと思うのです。
あとあの頃のお母さんがどんなに頑張っていたかってことも。


お母さん、ありがとう。


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