毎日寒くて心が折れている。
もう立ち上がることすら大儀に思えて、窓の外を行く人を見ては自分がいかに弱いかを思い知らされる。
立ち上がることさえ大儀だと思っていると、暮らしの中のささくれやほころびがあれよあれよと増えていく。
隅にたまる埃。
うっすらよごれたカーペット。
キッチンカウンターに滞積する、よく分からない紙類。
野菜室の底に薄く積もった枯れた野菜くず。
さっと立ち上がって5分ほど手を動かせば解決する小さな面倒から目を背けて忙しいふりをしている。
その気にさえなればいくらでも忙しいふりができるので師走は都合がいい。
家の中はさっと立ち上がれば一瞬で終わることだらけで、それはおそらく暮らすということの真理であるのだけど、なんせ、冬だからさっと立ち上がること自体がとても難しい。
私はストーブの前から動きたくないし、さっと歩けば風を切って寒いので心によくない。
先に述べた部屋の隅の埃やなんやというのは、放っておいても大した影響がないし、遠目で観ればひとつも気にならないので努力次第では忘れていられる。
だから、さっと立ち上がらなくとも、そう困ることはないのだ。
なにかのはずみで埃の前に転がりついたときに考えればいい。
ところが、そうもいかないことがある。
洗濯だ。
私はあらゆる家事の中で2番目に洗濯が嫌いだ。
1番は米を洗うことで、ひとつも面白味がないところがとにかく気に入らない。
それにどういう訳か、私は米を洗うと強烈にトイレへ行きたくなる体質で、それもまた米洗いが嫌いな理由のひとつだ。
けれど、米を洗うのはつまらなさとトイレの点で1位に君臨するけれど、たった一度立ち上がればいいので1位とは言え、まだ始末がいい。
問題は洗濯のほうだ。
あれはほんとうに始末が悪い。
まず、洗濯機を回す段で一度立ち上がらなくてはいけない。
その上、洗濯が終了したらもう一度立ち上がらなくはいけない。
洗濯終了の合図が鳴ったそのときの私のやる気がどうであろうと、いずれ終わりは来て、洗濯物を干すことになる。それはものすごく残酷なことだ。
大きなエネルギーでもって立ち上がって、洗濯機を回したそのやる気のままに洗濯物を干したいのに、終了音が鳴るのはずいぶんと先で、その頃には私はきちんと座り込み、またやる気を失っている。
私はさっき、すごく立派に決意をして、頑張って洗濯機のスイッチを押したのに、洗剤だって表示通り入れたのに、とても偉かったのに、労われる暇もなく、褒められることもなく、なにも面白いことも発生しないまま、また立ち上がるのだ。
それがものすごく嫌だ。
どこまでも目を背けていたい。
終了音を聞かなかったふりをして、洗い物をしたり、ごはんを作ったり、平気で他のことをする。冬なので、せっかく立ち上がっても、暖が取れそうな料理や洗い物など、好きな家事のほうばかり見てまた、忙しいふりをしてしまう。
なんせ、冬なので、冷たいものは触りたくない。
料理をするのは温かいので大好きだ。
それに料理をしている間は一瞬だって退屈することがない。
ずっとなにかが起きているのがとてもいいし、どんどん美味しそうなにおいがして、終始楽しい。
食べる楽しみが加速する面白味もある。
食器を洗うのも温かいお湯との触れ合いなので、冬場は大好きだ。
手の皮膚がめっぽう強く、素手で元気に洗ってもちっとも荒れた試しがない。素手でじゃぶじゃぶお湯を触るのはほんとうに気持ちがいい。
ところが、洗濯物の奴は冷たい。
冷たくて重くて、手に張り付いてくる。
好きでもないやつにまとわりつかれているようで鬱陶しい。
生意気なやつだな、と忌々しい気持ちになる。
かわいい子どもたちの洋服ならまだしも、夫が洒落っ気を出して引っ張り出してきた重たいズボンなんて冬場はただ不快だ。
干している間中、楽しいことがひとつもない上に、冷たいのだからそりゃあ立ち上がるのも億劫になるというもの。
ただでさえ立ち上がることが大儀な真冬に、退屈で冷たい洗濯物干しのことなんて考えたくない。
そして、いよいよ、意を決して洗濯物を干したとして、乾くまでにうんと長いアイドルタイムがあるのがまた厄介だ。
すべてをやり切ったような気持で、もう洗濯物のことなんて忘れても許されるような気持になっているところへ、またしても立ち上がらなくてはいけない。
お天気がいい日に調子に乗って外に干そうものなら、取り込むころには木枯らしが吹いていたりもして、いよいよ知らんぷりを決め込んでしまう。
もう無理だ。
頑張ってスイッチを押して、すごく頑張って干して、それを、今度は取り込まないといけない。
そんなのもうすっかり気分じゃない。
いったいいつまで私はお洗濯気分でいないといけないのか。
一日に使えるお洗濯気分をすべて使い果たした頃にまた立ち上がって取り込むことに耐えられない。
知らんぷりを決め込んでいるうちにとっぷりと日が暮れて、帰宅した夫が、洗濯物を片手に帰宅するまでがセット。
しんと冷え切った洗濯物はほんのりと湿っていて、もう一度家の中で干すことになる。洗濯の壁が全方位的に高い。
毎日の家事にしては不自然なほど厄介すぎる。
やっと乾いた洗濯物は次の洗濯が終わるまでにハンガーから外される必要があるし、それもまた面倒だ。
そして外されたそれは可能な限り畳まれる必要もあるし、もう面倒ごとしかない。洗濯って反抗期?
我が家には取り込まれた洗濯物を入れておく茶色いカゴがあって、子どもたちには極力そこから発掘するように言い聞かせているのだけどなんせ子どもなので、すぐに引き出しから新しいものを出してくる。
そんなことを繰り返していればいつか茶色いかごには衣類やタオルがうず高く積まれて、そのうち、やれ「靴下がない」だの、やれ「パンツがない」だの言い出すことになる。
果てしないほど高く積みあがったお山の底から靴下を発掘しようとすると噴火さながらの大惨事になるし、ほら、ますます目を背けたい。
なんなの洗濯。
私だってそれなりの大人だから、どんなことにも小さな楽しみを見つける美しさも学んできたのだけど、嫌なことを真っ向から嫌だと直視する潔さも同時に身に着けてしまった。
「私、ほんとうは我慢してたけど、嫌いなんだ」と思うことだって人間には必要だ。
それもまた、ある程度生きてきたからこそ身についた、人としての生きる知恵なのだ。
とりあえず、真夏になれば私だって冬よりはまともに洗濯を扱うことができるので、早く暖かくなってほしい。
ただ、大嫌いなそれに立ち向かっているとき、好き放題生きている私の毎日をちょっと人間らしくしているなと都合よく思ったりもしている。