「世界が認める酒」は伝統×テクノロジーで生まれる。山口で営む日本酒蔵の挑戦

大正10年(1921)創業、100年超の歴史を誇る澄川酒造場は日本酒コンペティション「SAKE COMPETITION」で3年連続第1位に輝いた蔵元です。

販売する銘柄は、初代が亡き妻を思って名付けた「東洋美人」のみ。純米大吟醸「東洋美人 壱番纏」は、2016年の日露首脳会談の夕食会のメニューや2010年FIFAワールドカップ 南アフリカ大会の公式日本酒に選ばれるなど、日本を代表する銘柄の一つです。

澄川酒造場が目指す「継承」と「革新」を融合した日本最高峰の酒造り。それを可能にしたのは、蔵を襲った未曾有の大災害と、それを乗り越えるために導入した、最新鋭のテクノロジーでした。日本を代表する酒蔵のこれまでの歩みについて、代表・澄川宜史さんに伺います。

「ものづくりは常に現場であれ」

今でこそ「東洋美人」の名が世界に知られる澄川酒造場ですが、現代表・澄川宜史さんが跡を継ぐ以前は地域で親しまれるお酒を醸造する蔵として生計を立てていました。酒造 りは分業制の時代。蔵元は経営に関わり、酒造りに関しては季節労働者である「蔵人」が責任を持っていました。


そんな澄川酒造場の酒造りを大きく変える出来事がありました。それは宜史さんが山形県にある高木酒造の15代目高木顕統さんと出会ったこと。高木さんは、同じ大学の先輩であり、蔵元が自ら醸造の責任を持つ「蔵元杜氏」の先駆者として業界内でも有名でした。大学3年生の時に澄川さんは高木酒造に研修へと赴き、高木さんに薫陶を受けます。

「ほとんど年も離れていない先輩が杜氏として現場を指揮している。その姿を見て『ぼくのやるべきことはこれなんだ』と分かりました。ものづくりを行う以上、絶対に現場から離れてはいけないんだと」

高木酒造で酒づくりに向き合う姿勢を学んだ澄川さんは、澄川酒造場に入社後、さまざまな改革を行っていきます。社外の蔵人に任せていた体制を一新し、自ら醸造に関わるように。同時に、自分たちが本当に良いと思える酒米をつくるため、近所の農家に依頼して酒米山田錦を栽培してもらうことにしたのです。

また、醸造だけでなく、販路拡大のために自ら東京にも営業に回りました。時には夜行バスの席を4席確保し、商品を積んで東京に酒を売りに行ったことも。品評会にも出品し、数々の賞を受賞する中で少しずつ「東洋美人」の名は広がっていきました。

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未曾有の大災害からの再起。日本一の日本酒へ

酒造りが全国的に評価を獲得していく中で、突然の出来事が澄川酒造場を襲います。2013年7月28日に山口県が大災害に見舞われてしまったのです。

萩市東部地域の集中豪雨により、酒造場近隣を流れる田万川が氾濫。澄川さんの自宅、酒蔵ともに濁流に飲み込まれてしまいました。澄川酒造場も2メートル以上の高さに浸水し、一階がすべて流されてしまう大被害に遭います。建物や設備だけでなく、蔵にあった1万本を超える出荷前の東洋美人が流されてしまいました。

「あの時は、再び酒造りができるとも、やろうとも思えなかったですよ」

被害の大きさから一時は廃業にも追い込まれかけた澄川酒造場。水害当初は再建について考えが及ぶことはなかったものの、多くの方々からの助力や励ましがあり、蔵の再建を決意。

窮地に追い込まれた澄川酒造場に手を差し伸べてくれたのは、酒販関係者や「東洋美人」を心から愛するファン達でした。全国から1,500人ものボランティアが駆けつけて、瓦礫やゴミの片づけを行うなど蔵の復興を支援。彼らの後押しを受けた澄川酒造場は、なんと5カ月後には仕込みを再開し、酒造りを再スタートさせます。

その後、2014年10月に開催された世界最大級の日本酒コンペ「SAKE COMPETITION」の「Free Style under 5000」でグランプリを獲得。水害から1年あまりでの、劇的な受賞となりました。