「基本の所作を追求すること」。プロスケーター兼茶道家が見出す仕事の本質

15歳の若さでプロスケートライセンスを取得し、さまざまな大会で輝かしい実績を獲得。46歳となった現在もレッスンやYouTubeチャンネル「くまトレ」でスケート動画を配信しているスケーターの赤熊寛敬さん。スケート界では「レジェンド」として知られる彼には、実はもう一つの顔があります。それは熊野宗寛名義で行う茶道家としての顔。プロスケーターと並行し、10代のころから家業である「熊野茶道」で腕を磨いてきた彼は、現在、裏千家茶道の准教授として東京都内で茶道教室を開いています。

スケートパークで迫力ある滑りを見せたかと思えば、静謐な空間でお茶を点て客人をもてなす。相反するかのような2つの仕事を長きにわたって継続している赤熊さん。その独自のキャリアはどのように築かれてきたのでしょうか? 

遊びのつもりだったスケートボード。「たまたま」プロになった15歳

──赤熊さんはプロスケートボーダーとして活動しながら、茶道家・熊野宗寛として活動されていらっしゃいます。スケートボーダーと茶道家、この2つの仕事を両立させている方は珍しいのではないですか?

よく言われます(笑)。茶道家としては家業である「熊野茶道」にて裏千家茶道の准教授として教室を受け持っており、現在は茶道家としての仕事をする時間の方が長いですね。

スケートボーダーとしてはイベントに出演したり、レッスンをしたりすることもありますが、YouTubeチャンネル「くまトレ」にレッスン動画をアップロードすることがメインの活動です。

──それぞれ、どのようなきっかけで始めたのでしょうか?

どちらも子どもの頃から親しんではいたのですが、先に始めたのはスケートボードでした。兄が楽しそうにスケートボードに乗っていたのを見て格好良いなと思い、自分も滑り出したのが10歳の時です。

そのあと、スケートボードに没頭していたのですが、15歳のころに家業である茶道を本格的に始めました。自分から進んで学びはじめたわけでもなく、兄が「家業を継ぐ気はない」というので、じゃあ自分がやらなきゃなと渋々始めたんですよ(笑)高校生の頃は茶道のおもしろさが分からなかったのですが、続けていくうちに段々とおもしろくなってきて上達もし、20歳の時に自分で講座を受け持つようになりました。



茶道家としては熊野宗寛名義で活動。現在、週に4つの講座を受け持つほか、花道の教室を開くことも。(©︎Shinichirow Koyama)

ただ、仕事になったのはスケートボードが先でしたね。プロになったのが15歳だったので。

──そもそも、プロスケーターになろうと思ったきっかけは?

たまたまというか、「流れ」でなってしまったというのが正直なところです(笑)。

──どういうことでしょう?

ぼくは高校生の時に初めて一般社団法人日本スケートボード協会(AJSA)のアマチュア大会に出場したんですけど、そこで優勝して、プロライセンスを獲得しました。優勝すると、自動的にライセンスが発行されるという仕組みだったんです。

ですが、それよりも前からスポンサーやショップから活動の支援をしてもらっていました(スケートボードではプロライセンスの有無に関わらずメーカーやショップなどがスポンサー契約を結ぶ文化がある)し、対価を得ている以上は「プロ」と考えることもできるじゃないですか。何を持って「プロスケーター」とするのかって、ちょっと曖昧なところがあるんです。

今も複数社とスポンサー契約は結んでいますし、仕事であることは間違いないのですが、今は20代の頃のようにバリバリ大会に出たりはしていないので自ら「プロスケーター」を名乗ることはありません。プロかどうかの意識は、スケーター個人の姿勢によって異なるかもしれません。

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ギプス姿で茶道教室に向かった20代

──20代の「プロスケーター」として活動していた時期はどのような活動をされていたんですか?

国内の大会に出場したり、仲間達とスケートビデオを撮影したりというのが活動の中心ですね。今でこそオリンピック競技になるなど「競技」として受け入れられていますが、当時は「遊び」の延長だったんですよ。それも、ちょっとやんちゃな人たちの文化という感じで(笑)

──スケートボードを取り巻く文化は大きく変わったのですね。

当時は今ほどは盛んではなかったですね。スケートボード人口も東京オリンピックで正式種目に採用されたことを境に爆発的に増えましたし。

あと、仕事としては当時たくさんあったスケート雑誌からの依頼で撮影もたくさん行っていました。

たとえば、「次号の誌面に掲載するために8箇所で撮影したい」というような依頼が来て、いろんなスポットを巡って撮影しに行くんですよ。自主的に撮るビデオとは違って、締め切りがあるので大変でしたね。

──街中で撮影を行うということでしょうか?

そうですね。スケーターが普段滑っている場所を紹介したりしていました。レール(階段の手すり)でのトリックに失敗してしまい、腕を脱臼をしてギブスをはめたまま茶道の教室に出たことや、膝から血を流しながら正座していたこともありましたね。なんでもないふりをしていたのですが、生徒さんにはバレていました(笑)。

同時代に活躍していたスケーターで、高いレベルを求めてアメリカに行って活動する人もいたのですが、ぼくは海外にはあまり興味がなく、国内での活動がメインでしたね。

──それはなぜですか?

一番の理由は茶道の仕事があったことですね。それに、スケートは僕にとって「遊び」の延長だったんです。なので自分の中で納得のいくスケートさえできれば、海外での評価を得たいということはあまり考えませんでしたね。自分自身が楽しんで滑って、見ている人を楽しませられたら満足だったので。