19歳で右目を失明。元プロボクサーが埼玉の人気ラーメン店主になった理由。

埼玉県北足立郡伊奈町に、20年以上前から愛されるラーメン店があります。「博多長浜らーめん楓神」です。愛され続ける理由は、その格別な豚骨スープの味だけではありません。

店主の関根悟史さんは、19歳の時にプロボクサーとして活躍していましたが、同年、交通事故で右目を失明。ヘルニアなどの合併症を発症しました。それでも自らを奮い立たせ、28歳の時に開業したのがらーめん楓神です。

一時は廃業したものの、関根さんが46歳の時に再び店を開け、コアなファンを熱狂の渦に巻き込んだらーめん楓神。

逆境に立ち向かう原動力となったものは、なんだったのでしょうか。ラーメン店を開業した理由や、廃業という絶望から這い上がることができたわけを深掘りします。

炊事、洗濯を自分でしていた幼少期

——らーめん楓神の豚骨スープは、「呼び戻し」という独特の製法でつくられているそうですね。SNS上でも「最高に美味しい、攻めスープ」と高い評価を得ていますが、どのような製法なのですか。

開業前、勉強のために訪れた福岡県久留米市発祥のスープの炊き方です。スープ釜を開業時から絶対に空にせず、別の釜でとった新しいスープを毎日少しずつ継ぎ足しながらつくる技法で、麺は、同じく福岡の長浜ラーメンの細麺を使っています。

ありがたいことにX(旧Twitter)では、「ぼくとらーめん楓神のスープは相思相愛です」といった、熱烈な愛のこもった投稿をよくいただきます(笑)。

——らーめん楓神の公式Xのフォロワーは約1万人。多くのファンが関根さんのラーメンを称賛していますね。ちなみに関根さんご自身は、過去に辛い幼少期を過ごされたとか。

小学校低学年の時、親父の虐待が原因で両親が離婚したんです。居酒屋を営んでいた母親は男性客にアプローチされることが多く、見知らぬが男がよく家に出入りしていました。相手の男性から暴力を受けたこともあります。

「自分のことは自分で守ろう」と思って、食事づくりや洗濯も自分でしていました。洗濯物は、まだ小学生だったので「天日干し」という概念が頭になくて、洗濯機から出したらタオルで包んで、足で踏んで水気を取り、床に広げて乾かしていたんです。だから、いつも生乾き臭かった。

このころは「いつか自分に暴力をふるった相手をぶっ飛ばしてやる」という思いと、怒りの発散のために、小学校の体育館にあった腕の筋肉を鍛える「プッシュアップバー」という器具で筋トレを300回くらい、毎日のようにしていましたね。


(写真はイメージ)

——怒りの感情を、筋トレで発散していたわけとは。

教室で暴れたりトラブルを起こしたりすると、保護者に連絡がいくじゃないですか。親に借りをつくりたくなかったんです。当時よくぼくの面倒を見てくれていた、親戚の恋人の暴走族の総長と一緒に、喧嘩に参加することはありましたが……。

小学4年生からは学校にも行かなくなりました。中学生時代はイライラや衝動を抑えきれず、喧嘩をしたり、物を壊したりすることも増えていたと思います。

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事故で奪われたプロボクサーへの夢

——そこから、どのようにしてボクサーを志したのですか。

ボクシングを始めたのは19歳の時です。きっかけは当時付き合っていた彼女との別れでした。「喧嘩してばかりの今の自分、格好悪いな」と思ったし、有名になって見返したい気持ちもありました。

そのころは、高級クラブのチーフや配送・建築・電気関係などの職を転々としていて、仕事を続けながら、早朝や夜中にボクシングの練習をしていました。毎日20キロ走ったり、世界ランカーやオリンピック選手相手にトレーニングをしたりしましたね。

ボクシングでも、試合に出場すれば「ファイトマネー」という報酬がもらえますが、数カ月に一度、かつ一回につき約4万円なので生活費としては足りません。チケットを手売り(選手自身がチケットを売り歩くこと)すると、売上の一部が報酬に上乗せされるので、職場で手売りすることもありました。

——未経験でボクシングを始めて数カ月で、プロボクサー試験にも合格されたそうですね。

普段の喧嘩でパンチの打ち合いには慣れていたので、自然に、違和感なくできたというのもあるかもしれません。それにボクシングは、お金のためではない、自分自身が強くなるためのものでした。だから頑張れた。

毎日筋トレをしていたから女性に告白されることも多い時期でしたし、新人王のトーナメント戦への出場も決まっていました。

だけど、交通事故に遭ってすべてがなくなってしまって。

——どのような状況で事故に遭われたのですか。

トレーニングに行く途中、日本チャンピオンも参加する大事な練習だったので、遅刻しないよう早めに家を出てバイクで向かっていたんです。

見通しの悪い交差点で、一度減速して発進した瞬間、横から一時停止を無視したトラックが突っ込んできて。ぶつかってきた相手に「ふざけんな!」と言おうとしたら立てなくて、救急車で運ばれて……。


(写真はイメージ)

意識が戻った時、右目は失明していて、左目も視界が約4分の1の状態。首も、鞭打ちが悪化して脊椎から腰椎までのヘルニアになり、医者からは「このままではもうボクシングはできない」と言われました。

ただ、現実を受け止めたくなくて。

左目は僅かながら見えていたので、「(失明が)ばれなければボクシングも続けられるだろう」と、入院中も、外出許可時間に車椅子でのロードワークを毎日していました。競技用の車椅子じゃないので全然前に進まないんですが、逆に、いい筋トレになると思って。

退院してからも、「絶対に続けてやる」という想いで、車椅子に乗ったままできるパソコン仕事などをしながら、トレーニングを継続しました。

20代半ばでヘルニアや足のケガが良くなってからは、千葉県御宿町の海岸で行われたボクシングの合宿にも参加。そこで出会ったのが、今の奥さんです。奥さんは先輩の女友達と遊びに来ていて、一度ぼくと話した時に気に入ってくれたようで。今は立場が逆転して、ぼくが尻に敷かれていますが(笑)。

——奥さまは、らーめん楓神の店頭にもともに立たれていますね。なぜ、ラーメン店を開こうと考えたのでしょう。

28歳の時、医者から「右目の眼圧が上がっている。このままだと眼球が破裂する」と言われて手術を受けたんです。手術後、障害者になったことを伝えられて。ボクシングはもちろん、パソコン仕事も続けるのも難しい。続けられたとしても障害者雇用になる、と言われました。

迎えに来てくれた奥さんの車に乗った時はまだ冷静だったんですけど、「どうだった?」と聞かれた時に、「普通の社会人としては、もうはたらけない。ボクシングもできなくなってしまった」と話しながら、自覚してしまって。話した瞬間、涙がバーッと出てきました。

格好悪いけど、自分の境遇がすごく辛く思えたんですよね。もう、悔しくて悔しくて。今までどれだけ、朝晩のトレーニングや筋トレを頑張ってきたか。有名選手とスパークリングをしても絶対に負けなかったのに……。

だけど少ししたら、泣いている自分がだせぇ、と感じて。奥さんに「俺、今まで喧嘩とか暴力とかそういうのばかりだったから、人に喜ばれることがしたい」と話しました。何も考えていなかったんですけど、当時ラーメンビジネスが流行っていたので、「今ラーメンが流行っているから、ラーメン屋やるわ」と。

その時、奥さんに妊娠していることを伝えられたんです。

——なぜ、障害者雇用ではたらくのではなく、ラーメン店の開業を選んだのですか?

ぼくは特段資格などを持っていなかったので、障害者雇用では充分に稼げないと知ったんです。それでは家族が生活できないし、子どもに人並みの教育も受けさせてあげられない。それなら、自分で店を立ち上げて、自分発信でブランドをつくろう。自分にしかできないことを形にしよう、と思いました。

奥さんは「私がはたらくから大丈夫」と言ってくれましたが、生まれてくる子どもにも、仕事をせずにでゴロゴロしている自分ではなく、仕事で努力する姿を見てほしかった。

目の手術を受け障害者となった約半年後の2002年に、ボクシングの後援会の方々や知人に開店資金を融資いただいて、らーめん楓神を開業しました。


開業から間もないころの関根さんと息子さん