やりたくない仕事が天職になり、フォロワー数が900万人を超えた寿司職人の話。

名古屋市郊外にある11席の高級寿司店、「寿司竹」。1972年に創業して以来地元ファンに愛されてきた、地域に根差した名店です。

そのこぢんまりとした外観からは想像もつきませんが、この店の大将・竹岡広行さんは、「シェフヒロ」の名で世界に「SUSHI」の魅力を伝えるインフルエンサー。SNS総フォロワー数は900万人を超え、寿司竹には連日、国内外からのフォロワーが竹岡さん目当てに訪れます。

一方で、もともと「寿司職人にはなりたくなかった」という竹岡さん。なぜ、そう思っていた仕事を20年以上続け、寿司の魅力を発信するようにまでなったのでしょうか?寿司職人への想いの変化を辿ります。

「なんだこの寿司は!」と投げつけられた日も

——竹岡さんは、どのような経緯で寿司職人になったのですか。

寿司竹はもともと母が経営していた店なんです。寿司づくりもホール業務もすべてを担う母を見て育ったので、寿司職人のイメージは、朝は早いし夜中まではたらき詰め。ぼく自身は、「寿司屋にはなりたくない」とずっと思っていました。

具体的な夢があったわけではないですが、漠然と「自分で会社を立ち上げて、社会問題や地域の課題を解決したい」と思っていました。だから大学では経営学を専攻。勉強も結構好きで、数学オリンピックを目指したり、塾講師のアルバイトをしたりしていました。

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でも大学4年生の時、母が体調を崩して。当面は、店を手伝っていた義父が大将を務めることになりましたが、親族で話し合い、その後の跡継ぎはぼくがいいだろう、と話がまとまったのです。母の店を守らなければいけない。そんな思いで大学を中退し、1996年、義父と一緒に寿司職人としてカウンターに立つようになりました。

——未経験で突然寿司職人になり、ご苦労されませんでしたか。

小さいころから店を手伝っていたし、大学時代に別の寿司屋でアルバイトをしたこともあるので、寿司づくりの基礎は知っていました。常連客の多い店なので、大半のお客さんは応援もしてくれましたね。

ただ、早朝から市場へ行って、22時の営業終了後も夜中まで寿司を握る練習をして……、本心では「やりたくない」と思っていた仕事を一日中やっていたせいか、一年半もしたらノイローゼ気味になってしまいました。

さらに、アルバイトの子たちは“単なる名義上の社長”であるぼくの指示を聞いてくれないし、大将が握った寿司をぼくが出しただけで「なんだこの寿司は!」とお客さんに投げつけられる。この日々がずっと続くと思うとしんどかったですね。

——お客さんにお寿司を投げつけられるとは、衝撃的です。

田舎の小さな店なので、当時はそういうことがよくありましたよ。会社の社長さんなどが多く訪れる店だからかもしれませんね。

——なぜ、挫折せず続けてこられたのでしょうか。

20代後半のころ、「寿司屋の仕事を続けたい」と思えるスイッチの入る出来事があったんです。

ある定休日、店の近所に住む女性に「(成人した)娘がご飯を食べてくれない。助けてほしい」と相談されて。その女性とは普段からよく話していたし、母子で寿司を食べに来てくれたこともありました。

娘さんは当時のぼくより年上でしたが、精神的な病で食べられる食材が少なく、どんどん痩せていっていたそうで、その一週間はどんな料理も受け付けず女性もパニック状態でした。

そこで、娘さんが好きな「シャケとイクラの雑炊」をつくって渡したら、「美味しい、美味しい」と食べてくれたそうで。それまでは、自分が握ってもいないのに「お前の寿司はまだまだだ」と言われ続けてきたのに、初めて、寿司屋としての自分を認められた気がしたんですね。


竹岡さんは、魚介類を使った寿司以外の料理も得意

そのあとも娘さんには何度か料理をつくりましたが、徐々に食欲が回復していったそうで。この時、「料理の力ってすごいな」と思いました。

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50歳で寿司職人を引退するつもりだった

——いつから竹岡さんが大将になったのでしょうか。

2006年、ぼくが32歳のころです。店のリニューアルと同時に、基本的にはぼくがカウンターに立ち、義父は裏の調理場で焼き物などを担当するようになりました。

——寿司職人として一人前になれた、ということですか。

そもそもぼくは「一人前になること」を目標にしたことがないんですよね。一定のレベルを目指すのではなく、「今日は昨日の自分よりもっと上手になろう」と、過去の自分と比べるようにしていました。そのやり方は、50歳の今も変わりません。


竹岡さんの動画には、海外のフォロワーから「あなたの寿司を食べに行きたい」と多数コメントがつく

——SNSを始めたきっかけはなんだったのでしょう。

40代になった時、「これで人生終わりたくないな」と思ったんです。

寿司職人は拘束時間が長いので、40歳を過ぎたころから体力に限界を感じ始めました。45歳を過ぎて身体の健康管理をするようになるまでは、年に1、2回、過労で倒れ救急車で運ばれていたんですよ。

あとは、自分の腕が上がるにつれて「もっといい食材を仕入れたい」「器(うつわ)にお金をかけたい」と思い始めましたが、寿司屋の特性上、そのために売上を伸ばしたくても伸ばせないもどかしさがありました。席数が限られているので、ある程度繁盛してしまったら、それ以上のお客さんに入っていただけないからです。

かと言って店の規模を拡大すれば、寿司職人を増やす必要がある。すると自分以外の人も寿司を握ることになって、一時的にでも、すべてのお客さんに同じ味を提供できなくなります。

そのころ日本に5Gが入ってくると知り、「これからは動画の時代だな」と思いました。店の売上をこれ以上伸ばせないなら、動画での収益づくりにチャレンジしてみよう。そう思って、2019年末、45歳でInstagramに「シェフヒロ」というアカウントをつくりました。

それと同時に、「母の店を守るために頑張ってきたけれど、50歳になったら寿司職人を辞めて、やりたいことを自由にやろう」と心に決めましたね。

——SNSでは、「竹岡さんが寿司や“丼もの”を一からつくり、自ら食べる」様子を撮影したショート動画が人気です。ほとんどの動画には英語の説明文が付いていますが、なぜ、英語で寿司のつくり方を発信しようと思ったのですか?

日本国内には寿司の情報が溢れているので、初めから海外向けに発信しようと決めていました。

海外のYouTubeを調べたところ、寿司の握り方を教える外国人シェフの動画がかなり再生されていたんですね。「これはすごい」と思って海外在住の知人に聞くと、寿司を握る技術を教える動画は海外では人気があると知りました。それで、ニーズがあると確信したんです。

英語は、小学1年生までアメリカ在住だった奥さんや、知人の英会話講師に教わることができますから。


SNSを始めた当初は「華やかな寿司」の写真を投稿していたが、アカウント開設から約1年後、竹岡さん自ら出演して握った寿司を食べたり踊ったりする“おもしろ動画”を投稿し始めたところバズったという。もっとも再生された動画は、再生数5,000万回以上。