山小屋と巡礼/龍崎翔子のクリップボード Vol.62

龍崎翔子<連載コラム>HOTEL SHE, 、香林居、HOTEL CAFUNEなど複数のホテルを運営するホテルプロデューサー龍崎翔子がホテルの構想へ着地するまでを公開!

山小屋と巡礼/龍崎翔子のクリップボード Vol.62

私が運動嫌いとして名を馳せたのは今は昔、何らかの心境の変化により、ささやかな休暇をカレンダーの隙間に見つけては海に湖に雪山に足を延ばすようになった経緯の断片については、かつてこの連載に寄せた通りである。

忌々しき中学時代の記憶ゆえ、長年避け続けてきた登山はいまや毎年の恒例行事となり、京都の主たる山はおよそ踏破し、BRUTUSの登山特集にも取り上げられ、なんなら日本アルプス遠征も視野に入れちゃおうかなと調子づき、来る日に向けて毎晩100回スクワットをするようになっていたまでの人の変わりようであった。

ホテルの起源を紐解くと、必ず辿り着く語彙のひとつに「巡礼」がある。中世ヨーロッパの宗教者たちが、巡礼の途上で命からがら越え歩いた峻険なアルプスの峠道。傷を負い、疲れ果て、叩いた修道院の門。そこから差し伸べられる温かい食事と清潔なリネン、そして手当て。ホテルの歴史とは巡礼の歴史と共にあり、それは人類の移動の歴史とも背中合わせだったと言える。

歩き疲れ、風雨にさらされる暗闇の中で、遠くに見える灯り。それは、真っ暗な高速道路を走り続けていたカローラが、次第に徐行して、鈍いオレンジ色の光を放つ街灯に照らされる駐車場に入ったのを、後部座席の天井を眺めながら感じた時の感覚にも似ているし、終電で辿り着いた見知らぬ駅で、スーツケースを引きながらGoogle Mapの導きに従って蛍光灯に照らされる夜道を歩き続けた先に、ビジネスホテルのLED看板が見えた時の気だるい安堵感にも似ているような気がする。

美しいホテル、心地よいホテル、上質なホテル、そんなホテルたちを愛しているけれど、それと同時にもっと原始的で、もっと本能的な、宿泊体験をしたいといつしか願うようになっていた。

夏の終わりに日帰りで駆け込んだ富士山の、登頂の高揚感が冷めつつある下り道。日没に間に合うように急いで駆け降りる山道は次第に険しくなっていき、崖のような岩場に差し掛かった頃には、辺りはすっかり日が暮れて、西の果ての雲が微かにオレンジ色に染まっているだけで、濃い藍色の空に星が煌めき出していた。首からぶら下げたヘッドライトが頼りなさげにぶらぶらと揺れながら足元を照らし、宵闇の中でグローブが掴む鎖の感触だけを頼りに岩山を下っていく。一緒に登っていた仲間たちはいつの間にか散り散りになっていて、元来た道を振り返ると遠く頭上に一番星のように輝くいくつかのヘッドライトが揺れていた。

日が沈んだ富士山の中腹で、いつしか辺りは真っ暗闇になり、そこには私たちしかいなかった。何度か足を攣ったり滑らせたりしながら、永遠と思われるくらい長い間、ひたすらに岩山を降り続けた。やがて遠くにポツリと山小屋の灯りが見えてくる。下っても下っても近づかない光との距離に焦りと苛立ちを感じながら、光が見えていることだけが前に進む希望でもあって、鎖を握りしめ、笑いが止まらない膝を押さえて下り続けた。

ふと視界の端で何かが光った気がして、目を凝らすと、麓の街の上空に浮かぶ入道雲の中で稲妻が輝いていた。その数は次第に増え、さながら夏の終わりの花火大会のように、夜空を縦横無尽に閃光が駆け巡っていた。見上げれば満天の星が瞬き、目の前には無数の雷が光を放ち、眼下には山麓の街の夜景が広がっていた。それは地上では見ることができない、あまりにも異様で美しい光景だった。

迫り来る雷雨に降られたら、足場が濡れたら、いつ滑落してもおかしくない状況に焦燥感を感じながら、疲労困憊した身体に鞭打ちながら鎖を手繰り寄せていく。やがて峻険な岩肌は石造りの階段へと変わり、最後の力を振り絞りながら下り切った先に、私たちの泊まる山小屋はあった。

白熱灯の灯りに、木とい草の香りに、呑気なTシャツ姿の山男たちの佇まいに、供される牛丼とカップ麺。稲妻の光る暗闇の中で、死の可能性が脳内によぎりながら岩山を駆け降りていたさっきまでの世界とはあまりに対照的な、紛うことなきそこは安全圏だった。畳の上で大の字になりながら、なんだか泣きそうな気持ちになった。そして牛丼とカップ麺を食べ、地面のように硬い二段ベッドで寝袋にくるまりながら泥のように寝た。

中世のヨーロッパの巡礼者たちもきっと、険しい山道を越え、傷つき疲れ果てながら、修道院から漏れ出る灯りを心の支えにして、辛うじて正気を保って足を一歩ずつ運んでいたんだろう。時に、幻想的な光景に出会うこともあっただろうし、日常生活を送る修道僧たちのいでたちに白昼夢を見ていたかのような気持ちになったこともあったのかもしれない。

そんな切実で、原始的な宿の姿に思いを馳せる。山小屋に泊まることは、私にとっての巡礼の旅だった。

龍崎翔子

龍崎翔子/SUISEI, inc.(旧:株L&G GLOBAL BUSINESS, Inc.)代表、CHILLNN, Inc.代表、ホテルプロデューサー
1996年生まれ。2015年にL&G GLOBAL BUSINESS, Inc.を設立後、2016年に「HOTEL SHE, KYOTO」、2017年に「HOTEL SHE, OSAKA」を開業。
2020年にはホテル予約システムのための新会社CHILLNN, Inc.、観光事業者や自治体のためのコンサルティングファーム「水星」を本格始動。
また、2020年9月に一般社団法人Intellectual Inovationsと共同で、次世代観光人材育成のためのtourism academy “SOMEWHERE”を設立し、オンライン講義を開始。2021年に「香林居」、2022年に「HOTEL CAFUNE」開業。

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