梨の由来は「nothing」?
梨 こういうタイプで書くとしたら、かっこ書きの「私」、梨という存在ができる限り透明でないといけないというか、透明であってほしいんですよ。私がどうやっているかじゃなくて、とりあえずこの情報を見てください、という方向になるので。私がそれをどう思っているかというよりは、透明化された私が集積して収集したこの情報を見てください、という側にシフトしているので。こちらの私は、キャラが立ってはいけない。
吉田 だから「なし」なんですか。nothingの無し。
梨 はい。対談イベントをするときも、私役の人を数人雇ってとっかえひっかえ壇上に出して、私は透明です、何者でもありませんよ、っていう風にしようとしたことがあります。
吉田 今日び、それをすると逆にキャラが立っちゃいますよ(笑)。ファウンド・フッテージものの宿命として「このフッテージは誰が見つけたものなの?」というのが絶対的な背景としてあるじゃないですか。
発見したファウンダーは誰なのか。いくら隠そうとしてもそこは注目されるし、今のように作り手が表に出るのが当たり前の世の中だと、隠せば隠すほど神格化する、キャラ立ちしてしまう危険があるのでは。だから逆に『セメント樽の中の手紙』みたいに、作者の葉山嘉樹が透明化するために松戸与三みたいな登場人物を設定する、というやり方もある。
梨 おそらく最善は、阿澄思惟さんぐらいの感じが一番いいと思います。もう完全に誰が誰だかわからなくて、この人だろうみたいに想像されて。ちょっと前の時代だったら『家畜人ヤプー』の沼正三さんとか、ああいう感じになると思うんですけど。あれはあれで、作者が誰なんだろうっていう方向のセルフブランディングだった。
吉田 阿澄思惟さんは三津田信三さんなんだろうって、みんな思ってますけどね。
梨 『忌避(仮)』に出てくる名前が「津田信」だから、そうだろうと思われていますけど、まあ一応隠しているという。とはいえネット上でやるとしたら、作者探しは宿命というか、そういう風になっちゃうんですよね。
吉田 作者の生活もあるわけですから。単純に私生活を隠しおおすのも大変だし、仕事を取っていくにしても「はい原稿を送りました」だけで生活費を賄えるだけのギャラが貰えるかというと、今の日本の状況では難しい。ある程度、他の仕事もしなきゃいけない。
梨 本当に。『近畿地方のある場所について』の背筋さんがすごく誠実だなと思ったのは、作品が完結した後、バズっていたアカウントとはまた別のご自身のアカウントを作って「※注意※作品から感じる恐怖感を損なう可能性があるため、それでも問題ない方はお読みください。また、あえて恐怖感を低減するために読んでいただいてもかまいません。」と発信した。
そこでライナーノート、作中の裏話みたいなものを出したんですよ。だから『近畿』を完全なアノニマス、アラン・スミシーが書いたものとして読む人は、これを読まないでほしい。逆に恐怖を薄めたい人は読んでくださいって明示していました。それを読むか読まないかは、あなた次第だけどねっていう感じの落としどころになっていて。エンタメとしてやるとしたら、それが最適解の一つではあるのかもしれない。
吉田 今はそれが最適解かもしれない。10年前だったら無粋と言われるかもしれないけれど、今この状況、2020年代の日本のこの状況においては、それは誠実ですね。
梨 エンタメとして楽しむのであれば誠実ですし、完全にフェイクドキュメンタリーとして楽しみたい人からは「無粋だ」という意見も享受しないといけないかもしれないですね。
(広告の後にも続きます)
考察ブームにみんな疲れている?
吉田 でも完全に隠すことが最適解なのかというと、今はそうじゃなくなっているかもしれない。それはそれでもう浅いのかもしれないっていう。虚実の取り扱いがものすごい勢いで二転三転四転五転しているので、作者はどうすべきかの最適解の態度も常に流動している。
梨 特にホラー作品、またネットホラーだとさらにそうです。これはもう全く無責任な考察なんですけど、多分、2025年頃までには、ネット上に集積した情報で考察してもらうみたいな手法は、一回揺り戻しが起こるんじゃないか。「そういう考察はもう疲れたよ」みたいになる時期が来るんじゃないかなと思っています。
吉田 となると、スタンダードな骨太ホラー小説が流行る。
梨 骨太ホラー小説とか、あるいは最初から解説ありきというか、もう解説を地の文で提示しちゃう。あるいはちゃんとキャラクターがいて、小説として面白いみたいな感じの方に行くんじゃないかなと、私は思っているんです。
吉田 それはあり得るかもしれないです。私は最近、また篠田節子などの小説を読んでいますけど、やっぱり骨太感っていいなって思いますよね。
梨 こっちはカウンターですからね。他に骨太ホラーや実話怪談とかがあって、そのカウンターとしてようやく機能するコンテンツだと思っているので。ファウンド・フッテージが主流になったら、絶対に読み手は疲れるんですよ。
だってこんな、読み手に能動性を担保して、それでようやく成立するなんてものが乱立した場合、読者にとっては「それらを読み解くのに時間使ってくださいね」なんて知ったこっちゃねえよ、ってなるじゃないですか。
吉田 ひたすらカウンターであるという意見には、確かになるほどと膝を打つところはあります。もしそれがカウンターでしかないところから脱却するとしたら、それこそプロレタリア文学みたいな、なんらかの意義なりバックボーンをきちんと持つようになればいけるのかな。
梨 だから、次のステップにはそういうものがあるのかなと、今は思っています。
文/吉田悠軌 写真/長谷川健太郎