映画を早送りで見ても、教養をビジネスで利用するために学んでも、人はそこで必ず「他者」の文脈に触れることになる。文芸評論家の三宅香帆氏は、そういった目的の周辺にある「ノイズ」に耳を傾けることが、働きながら本を読む一歩だと語る。
書籍『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を一部抜粋・再構成し、2021年の芥川賞『推し、燃ゆ』(宇佐見りん、2020年)の主人公を例に解説する。
『推し、燃ゆ』とシリアスレジャー
2010年代後半から2020年代にかけて、「オタク」あるいは「推し」という言葉が流行するようになった。
2021年に芥川賞を受賞した『推し、燃ゆ』(宇佐見りん、2020年)は「推し」のアイドルを愛する女性の葛藤を描き、単行本は50万部を突破している。
同書の主人公・あかりの特徴的な点は、これまで余暇時間に趣味として楽しむものとされてきたアイドルの応援活動に、人生の実存を預けているところにある。
つまり『コンビニ人間』(コンビニで働く女性の物語。コンビニで働くことで自分を「普通」に適合させるのだと主人公は感じている)が労働で実存を埋める女性を描いた物語だとすれば、『推し、燃ゆ』は「推し」という趣味とそれにともなうSNSでのコミュニケーションのなかで実存を埋める女性を描いた物語である。
あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。
勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。(『推し、燃ゆ』)
「推し」という他人を応援することが、自分の「背骨」であると『推し、燃ゆ』の主人公・あかりは述べる。つまり、『推し、燃ゆ』は生活の一部として「推し」がいるわけではなく、人生の生きる意味や生きることそのものが「推し」なのだと語っている。
これはオタクと呼ばれる人に限った話ではない。
昨今「シリアスレジャー」と呼ばれる、「お金にならない趣味を生きがいとする人々」が注目されている。『「趣味に生きる」の文化論―シリアスレジャーから考える』(宮入恭平・杉山昂平編)において、たとえばアマチュアオーケストラの団員やボランティアなどが「シリアスレジャー」の担い手として登場する。
労働の合間に休息として癒やしや豊かさを求めておこなう「レジャー」ではない。自分の人生の生きる意味となる、「シリアスレジャー」。
「推し」を応援することが、「シリアスレジャー」になった女性の人生を描いた物語が『推し、燃ゆ』だった。
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自分以外の文脈を配置する
あかりは究極的に自分の文脈のすべてを「推し」に集約させている。
しかし『推し、燃ゆ』という物語が面白いのは、自分の文脈すべてを集約させていた「推し」から離れる境地までを描いているところだ。
ふと、祖母を火葬したときのことを思い出した。人が燃える。肉が燃えて、骨になる。祖母が母を日本に引き留めたとき、母は何度も祖母に、あなたの自業自得でしょう、と言った。
母は散々、祖母にうちの子じゃないと言われて育ってきたらしい。今さら娘を引き留めるなんて、と泣いた。自業自得。自分の行いが自分に返ること。肉を削り骨になる、推しを推すことはあたしの業であるはずだった。一生涯かけて推したかった。それでもあたしは、死んでからのあたしは、あたし自身の骨を自分でひろうことはできないのだ。
「推し」を推すことは、自分の人生そのものであるはずだった。しかし─自分だけでは、自分は生きられない。そのことにあかりは直面する。自分の骨は、自分で拾えない。他者に拾ってもらわなくてはいけない。自分の人生から離れたところで生きている、他者を人生に引き込みながら、人は生きていかなくてはならない。
自分の人生の文脈を、「推し」とは違うところに配置しなくては、生きていけない。
自分の人生の文脈以外も、本当は、必要なのだ。人生には。
そうあかりは、悟るのだった。