踏絵を踏む様子、絵を踏むことによってキリスト教徒ではないことを証明した / credit:wikipedia

江戸時代の日本ではキリスト教が禁止されており、キリスト教徒を摘発するために絵踏みが行われていました。

その絵踏みに使われていたのが踏絵ですが、どのように管理されていたのかはあまり知られていません。

果たして江戸時代の日本で踏絵はどのような扱いを受けていたのでしょうか?

本記事では踏絵の種類や管理のされ方などについて紹介していきます。

なおこの研究は、西南学院大学博物館研究紀要4巻p25-38に詳細が書かれています。

目次

形骸化しつつも、江戸時代を通して続いていた踏絵どんどん雑になっていった踏絵の絵特級呪物!?焼き捨てた後は灰まで集めて管理されていた踏絵

形骸化しつつも、江戸時代を通して続いていた踏絵


踏絵を踏む様子、絵を踏むことによってキリスト教徒ではないことを証明した / credit:wikipedia

江戸幕府は創立以降、何度もキリスト教の禁教令を出していました。

そして1629年、キリスト教徒を取り締まるために絵踏みを導入したのです。

この絵踏みでは幕府はキリスト教のシンボルについて描かれていた絵を領民に踏ませることによって、領民にキリスト教を信仰していないということを証明させていました。

なお踏絵を踏むことのできなかった人は棄教するまで様々な拷問にかけられることとなり、その中で命を落とす人も決して少なくなかったのです。

とりわけキリスト教徒が多くいた九州では盛んに行われ、江戸時代初期の段階では年に数回行われていました。

しかし何度も行うにつれて目立つキリスト教徒は概ね摘発し、残ったキリスト教徒は隠れキリシタンとして地下化したこともあり、絵踏みの効果は徐々に低下していきます。

こうした隠れキリシタンたちは、「たとえ絵を踏んだとしても、内面でキリスト教を信仰していれば何も問題ない」と解釈して絵踏みを行っており、絵踏みによってキリスト教徒を炙り出すということは困難になったのです。

それでも絵踏みがなくなることはなく、江戸時代中期には長崎奉行所で毎年旧正月に絵踏みが行われていたとされます。

当時の長崎の人々はこれを正月の恒例行事としてとらえており、遂には「絵踏み」が春の季語として認められるまでにいたりました。

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どんどん雑になっていった踏絵の絵


聖母マリアの板踏絵、現在でもグラバー園内にある / credit:wikipedia

このように江戸時代を通して行われていた絵踏みですが、それに使われていた絵はどのようなものだったのでしょうか。

絵踏みに使われていた絵は様々なものがあり、現存するものだけでも「十字架に吊るされているキリスト」や「聖母マリア」など非常にバリエーションに富んだ様々な種類の踏絵がありました。

また踏絵は当初はキリストやマリアが描かれた紙を使って用いられていたものの、多くの人が踏んでいたこともあって損傷が激しく、途中から信徒から没収した約10センチ×約20センチ程度の礼拝用のメダイ(メダルのようなもの)を板にはめ込んだ板踏絵が主流になりました。

しかしそれも何度も踏まれ続けたことによって絵が削れていき、徐々にただの板になってしまいました。

そこで幕府は金属の板にキリスト教のモチーフを彫った真鍮踏絵を作り、これを用いて絵踏みを行いました。

なお真鍮踏絵は製作者がキリスト教徒ではなかったということもあり、そこに彫られているキリストやマリアはある程度は似ているものの、細部を中心にところどころ省略されています。

その中にはキリスト教の教義において重要な要素もあり、それゆえ隠れキリシタンの中には「こんなのはキリストのまがい物だ」と捉えて、何のちゅうちょもなく真鍮踏絵を踏んだ者も決して少なくはなかったという。