2019年の10月、沖縄・那覇の首里城が焼失したが、実はこれが初めてではない。第二次世界大戦中、日本軍第32軍司令部が置かれた首里城は沖縄戦でも失われているのだ。しかし、戦時中の当初は米軍の攻撃目標ではなかったという首里城。いったいなぜ失われてしまったのか。
『首里城と沖縄戦』より一部を抜粋・再構成し、お届けする。
首里城攻撃の中止要請
1945年3月24日。
「偵察機による確認では、それまでに(首里一帯の)建物の損傷は確認できなかった。3回目の一斉砲撃後、射撃は偵察機のアル・オリバー中佐により、古ぼけた建物の要塞(首里城)と思われる場所に移った。
偵察機のオリバー中佐は、『火砲にさらされているあの建物群を残すよう頼む。病院として使われているか、もしくはある種の宗教的な建物としてあるのかはっきりしない。
450メートル以下の高度で、建物に最初に一斉射撃を行なったとき、数人の女性と子どもたちがその場所から走って逃げ出すのがはっきり見えた』と回想している。そこは、沖縄の地上部隊に対する主要司令部のある首里城であることが判明した(*1)」
第二次世界大戦下、米軍では航空部隊に対し、歴史的建造物や病院、傷病者用の病棟は、攻撃目標から外すよう指示を出していた。
オリバー中佐は、「古ぼけた建物の要塞」としてある首里城を、「病院、もしくは宗教的建物」とみなし、砲撃を控えるよう要請し、結果的に首里城は、米軍の第一次総攻撃が行なわれる4月18日まで、無傷のまま残ることになった。
さて、オリバー中佐の報告の真偽を確かめるため、その日のうちに戦艦ノースカロライナは調査を行ない、そこは主要司令部が置かれた首里城であると判定した。また、同日の「アクション・レポート」には、観測機が撮影した首里城の航空写真も添付されている。
一方、偵察機が飛行中、数人の女性と子どもたちが走って逃げ出すのが見えたというが、このとき首里城内には複数の自然洞窟や、市民100人以上が避難できる「竹林壕」と呼ばれる大型の壕もあった。
さらに壕に入り切れない民間人は、城壁の隙間に逃げ込んだりしていた。オリバー中佐が目視した民間人は、学校施設にでも隠れていたのだろうが、子どもたちの行動が目に留まり、一時的にせよ首里城への攻撃を先延ばしするのに一役買ったようだ。
一方、米第10軍情報部は、首里城一帯に重要軍事建造物があり、第32軍司令部が首里城にあることは沖縄戦の前から実は分かっていたという。沖縄戦が終了した8月に出された『インテリジェンス・モノグラフ(Intelligence Monograph)』(報告書)は、具体的にこう述べている。
「沖縄作戦開始前から、第32軍司令部は首里城か、もしくはその近辺に布陣しているのはわかっていた。この神々しい建築群は、小都市首里にわずかに占める南端台地に位置し、旧琉球国王の居城であった。(中略)作戦開始後の捕虜尋問と記録によれば、第32軍司令部は、首里城台地下を走る精巧な地下坑道に布陣していたことが明らかになった(*2)」
米第10軍が日本軍司令部の位置をつかんだのは、日本軍が発信した暗号電の解読を通してである。米軍が南西諸島の日本軍電文を傍受‐解読し始めたのは、1944年3月の第32軍創設にまでさかのぼる。
その後ハワイの情報部を中心に、第32軍関連暗号電を追い続け、ついには連合艦隊司令部が1945年3月25日に沖縄海軍根拠地隊に打電した「我が(海軍の)砲撃部隊は、敵が陸上陣地に到達するまで米舟艇を砲撃してはならず(*3)」との電文まで解読している。これは、米軍が沖縄に上陸しても反撃してはならないと指示した海軍最高レベルの暗号電であった。
もちろん米軍側は上陸時、日本軍の無抵抗方針が分かっていても、総勢18万人に及ぶ沖縄上陸作戦を用意周到に決行した。暗号解読の秘策は、それが解読されていることを絶対に敵に気づかせず優位に行動に移すことである。
米第10軍司令部は、沖縄作戦開始前から第32軍司令部位置や日本軍作戦を知悉していても、それを上陸部隊や航空部隊に通報することはなく、そのため米第58機動部隊や艦載機は、独自の判断で文化施設と目される首里城への艦砲射撃や機銃掃射を回避したのであろう。
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米軍による沖縄調査と首里城の保護
首里城は、うっそうと茂る樹木に囲まれた高台にあった。ハワイ・オアフ島に司令部を置く米第10軍は、1945年春に予定されている沖縄侵攻のために大至急情報収集を開始した。
ただし沖縄の地形に関する情報が集まらず、古い出版物から情報を得て、さらに航空写真で不足分を補った。また米工兵隊は、作戦地に関する立体モデル(ジオラマ)を作成し、その中には精度の高い首里城・首里高地の立体モデルも含まれていた。
米第10軍では「そこ(首里城一帯)では、最も強力に建築物が守られているに違いない(*4)」としつつ、1944年10月以来、首里地区の特別監視活動を続けていた。
これとともに米軍は、沖縄侵攻と同時に始まる民間人統治、いわゆる軍政府施行のための報告書を出している。これは、米海軍省の作成になるもので『民事ハンドブック琉球列島』(1944年11月刊行)と呼ばれた。その中で首里は、単に行政区分の市として分類分けされているだけだ。
「王府の古城が高台にあり、市全体を見おろしている。その北側には有名な円覚寺や市役所があり、周辺には多数の歴史的・宗教的建築物がある(*5)」
貼付された図録に、首里城正殿の写真が掲載されている。
次いで沖縄侵攻作戦の全体像を示した『第10軍作戦アイスバーグ作戦』(1945年1月6日策定)の中で、首里地区内の攻撃目標を定めているが、首里城は攻撃目標にも回避すべき対象どちらにも入っていない。
ところが、『アイスバーグ作戦』を出した同じ日に軍政府関係者へ通達された「作戦指令第7号(略称ゴーパー)」には、「文化的な価値のある遺産や記念物は、軍事状況の許す限り保護され、保存される(*6)」と指示している。
これとほぼ同様な文言が、1945年3月1日に公布された「ニミッツ(最終)指令」にも記載されている。この考えは、第二次世界大戦レベルで言われた一般命令と同じで、文化財の保護と自国軍隊による文化財の略奪を防ぐねらいもあった。
また、沖縄戦のさ中の1945年5月、米陸軍動員部隊司令部は、『日本の文化施設への爆撃制限』と題する手引書を作成している。手引書では、日本国内の重要文化施設などに対し、爆撃を制限すべきだとして一覧表が掲載されている。その中に首里城も入っていた(*7)。
手引書が具体的にどのように活用されたかはっきりしないが、翻訳者の解説によれば、「戦時中に、日本の文化施設に対する考察がこの『手引き』のようになされていたということだけは事実(*8)」であると記載している。
ただし、軍事施設が置かれた岡山城(岡山県)や広島城など、19カ所の国宝・文化財が空襲や原爆などにより、首里城と同じく焼失しており、一概に手引書に基づき文化財が残されたとは言えまい。
かくして、1944年10月の「沖縄大空襲」から翌1945年4月までの約半年間、首里城は一度も攻撃を受けなかった。
前年10月10日の空襲で作成された「攻撃目標地点首里第17」では、首里地区に重要な軍事施設があると結論づけたが、とりたてて首里城を「攻撃地点」や「爆撃制限」地区に指定してはいない。
そうすると米軍は、首里城一帯に軍事的構築物があることを承知の上で、一時的に砲爆撃の回避地区に指定したといってよい。これは首里城地域が、沖縄で最も伝統的建築物の集合的場所であることと、第10軍が長期にわたり首里地区の追跡調査を行なった結果、ある程度の軍事的目安がついていたことと関係がありそうだ。