コロナ禍を経て行われ、日本勢もめざましい活躍を見せたパリ五輪。総合⾺術団体では92年ぶりに銅メダルを獲得し、障害馬術が含まれる近代五種で佐藤大宗選手が銀メダルを獲得したことも話題となった。これを機に馬術や乗馬に関心を持った人も多いのではないだろうか。
一方で、⾺とともに暮らす遊牧⺠の競技⼤会があるのをご存じだろうか。
オリンピックやパラリンピックとはまったく異なる、いわば「遊牧⺠のオリンピック」の模様を、星野博美著『⾺の惑星』(集英社)から⼀部抜粋・編集してお届けする。
オリンピックの⾺術競技
World Nomad Games─国際遊牧⺠競技⼤会をご存知だろうか。遊牧⺠に伝わる伝統的競技を競う国際競技⼤会で、2014年のキルギス⼤会から始まった。私は勝⼿に「遊牧⺠オリンピック」と呼んでいる。
ノマド・ゲームズは2014年の第1回⼤会、2016年の第2回⼤会、そして2018年の第3回⼤会と、3⼤会連続してキルギスで⾏われた。次の第4回⼤会は、時期や会場のなどの詳細は不明だが、2020年にトルコで開催されることが決まっていた。
しかし周知の通り、2020年が明けるとほぼ時を同じくして、新型コロナウイルスが全世界で感染拡⼤した。2020年の東京オリンピック・パラリンピックは早々に延期されることが決まり、ノマド・ゲームズも当然ながら延期となった。
2021年に延期開催された東京オリンピック・パラリンピックは、⾺が登場する競技をひたすら⾒続けた。⽪⾁なことにそれが、よりいっそう⾃分の⼼をノマド・ゲームズに向かわせる結果になった。
⽇本では⾺術競技がマイナーで、さほど⼈気もないため、地上波テレビや衛星チャンネルではほとんど放送されない(通常は競⾺中継をする「グリーンチャンネル」では中継された)。頼りはもっぱら、NHKがインターネットで提供する中継映像だった。
ところがこの中継、⽇本向けではなく、全世界に向けたオフィシャル映像であるため、アナウンサーの実況も解説もすべて英語である。
バリバリのブリティッシュ・イングリッシュをまくしたてる実況アナウンサーと解説者のかけあいを聞きながら眺めていると、わが家から10キロも離れていない世⽥⾕区の⾺事公苑や、江東区の埋め⽴て地に造られた「海の森公園」が、まるでどこぞの異国のように思えたものだった。
⾺が好きだから、すべての⾺術競技を楽しんだ。それはそれなりに幸福な時間だったが、同時に様々なこみ⼊った感情が湧き上がるのも感じた。
ブリティッシュ・スタイルで⾺術の技術の⾼さと美しさを競う「ドレッサージュ(⾺場⾺術)」。⾺と息を合わせる「⼈⾺⼀体」の競技といわれ、男⼥の区別なく⾏われるジェンダー・フリーの競技である。が、その根底にあるのは、⾺を完全にコントロールして意のままに動かすという、あくまで⼈間上位の発想だ。
その⾒返りとして、⾺は最上級の扱いを受け、ホームファームから丁重に航空機で運ばれてくる。さらに付け加えると、⾺術競技で⾼得点を叩き出す名⾺は各国の有⼒選⼿から引っ張りだこで、世界を股にかけた⾼額争奪戦が繰り広げられる。
障害物を跳んでタイムを競う「ジャンピング(障害⾺術)」も然り。アメリカの⼤御所ロックシンガー、ブルース・スプリングスティーンの娘ジェシカがアメリカ代表として出場し、団体戦で銀メダルを獲得したことも話題となった。⾮常に⾦のかかる競技であることを、あらためて痛感した。
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西欧の貴族社会的な馬事文化の踏襲
いわゆる⾺上クロスカントリーの「総合⾺術」は、東京湾上の埋め⽴て地に丘や池や⾛路を設けた「海の森公園」で⾏われた。こちらは複雑に設計された各種障害物を跳び、さらにタイムの速さで順位を競う。
背後に東京湾や湾岸に⽴つ摩天楼が垣間⾒えるコースは、オリエンタリズム満載で外国⼈ウケはよさそうだったが、すべて⼈⼯物で、苛酷なコースを疾⾛する⾺の脚に負担がかからないわけがない。
予選2⽇⽬、⽔濠を⾶び越える際に失敗したスイス⼈選⼿の⾺、ジェットセットが右脚を負傷し、安楽死させられたのは、悲しい思い出だ。そしてクロスカントリーコースは⼤会終了後、跡形もなく撤去された。東京の⼈⼯施設ではなく、⾃然に囲まれ、もともと乗⾺拠点の多い那須や⼩淵沢で開催できなかったものかと、思わざるを得なかった。
さらにパラリンピックも含めて全⾺術競技に共通したのが、イギリスやドイツ、フランス、オランダといった⻄ヨーロッパ勢の圧倒的な強さだった。アンダルシアンという名⾺の産地であるスペインや、サラブレッドの源流、アラブ⾺を産出するアラビア半島諸国ですら、その存在が⽬⽴たない。
いまなお⾺と暮らす⼈々が⻄欧諸国と⽐べて圧倒的に多いはずの、モンゴルやキルギス、カザフスタンといった国の選⼿が、ほとんどいない。⾺の扱いを⼀番よく知る⼈々が全然いないことに、⼤きな違和感を抱いた。
オリンピックやパラリンピックで繰り広げられるこれらの⾺術競技は、⻄欧の貴族社会的な⾺事⽂化の踏襲であり、その世界観の再現でしかない。そこに追随、あるいは少なくとも共感する姿勢でないと、いくら⾺が好きでも⼊りこめない現実を、再認識させられた。
私は、明らかに「⼊りこめない」側だった。私ですらそう感じるのだから、⾺と共に⽣きる⼈々は、より距離を感じるのではないだろうか。
オリンピックやパラリンピックの⾺術競技にはない、⼈と⾺の関係性。⻄洋のハイソサエティの⾺事⽂化とは違う、もっと泥臭いもの。
「これは、⻄欧主導ではない、遊牧民独自の競技大会を開くしかない」
ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。