子どもや女性たちは、骨まで焦がし、地べたをのたうち回り苦しんだ
また海兵隊は、民間人が隠れる壕にも「流油作戦」を行なっている。
本作戦に参加した一人の海兵隊が、80歳になりそのときの状況を書物に残した。
「我々は中に潜んでいるものすべてを殺すために、洞窟から洞窟をパトロールした。(中略)(洞窟にガソリンを注入すると)咳をしたり、泣き叫んだりして男、女、子供たちが飛び出てくる。彼らの目は焼けただれ、衣服は黃燐弾が燃え、衣服に付着し、消すことはできない。衣服をとおして、肉体や骨にまで火が達する。
彼らが痛がる様子は、恐ろしいものであり、子供たちが負傷者となったときは特に恐ろしい光景だ。海兵隊は残酷にも(彼らを見ながら)くるったように笑いこける。子供が母親に抱きついて、ガソリンを取り除こうとするのをみて笑っている(*8)」
証言を行なったジョセフ・ランチョッティ兵士は、こうも述べている。
「日本軍は、大きな洞窟(ケイブ)から口の開いた壕に民間人多数を放り出した。(ガソリンを投入すると)民間人が叫び声を上げている。彼らは、恐ろしさと痛みのために地べたをのたうち回っている。(中略)仲間の破壊野郎が私に(やめろと)叫んでいたが、私は女性の服に付いているガソリンを、ナイフでそぎ落としてやった(*9)」
油で焼かれ、松明のように燃えながら悲鳴をあげる日本兵を、海兵隊は機関銃で止めを刺すのである。また黄燐弾で焼かれた子どもや女性たちは、骨まで焦がし、地べたをのたうち回り苦しんだ。人が人でなくなったのではない。人間であるが故の残虐行為であった。
さて、バックナー将軍が、日本軍の撤退について、5月31日の参謀会議で意見を述べている。「牛島は、首里から撤退する船に乗り遅れてしまった。牛島が別な戦線を構築することは、もう不可能だろう。(中略)彼の首里からの撤退の決断が2日間遅すぎたということだ。通信手段は最悪で壕がもぬけの空なので、時間をかけて日本軍は移動したのだろう(*10)」
また、6月15日には、こうも述べている。
「日本軍は、米軍の艦船すべてを沈めたと言っていたはずだ。それがなぜ、首里に陣取り南部に撤退したのか。日本軍は、わが軍の補給を食い止め、遊び半分我々を殺すと言っていたのではないか(*11)」
バックナー将軍は、日本軍が南部に撤退したことについて地団太を踏んでいたのである。この3日後の6月18日、バックナー将軍は戦死した。この日、バックナー将軍は沖縄戦に新たに投入された第2海兵師団第8海兵連隊の南部での作戦を視察中、日本軍の対戦車砲弾が近くに着弾し、その欠片(一説には岩片)が左胸に当たり、戦死した。
ユーモアを好む豪傑肌な軍人であった。バックナー将軍は、民間人に対する海兵隊の無分別な行動を厳しくいさめたが、日本兵は数多く殺せと命令していた。
イラスト・写真/shutterstock
*1 *4 US Navy, The History of the U.S.S. New York, BB-34(1945). World War Regimental Histories. 162 , p.54.
*2 同上。
*3 キース・ウィーラー、谷地令子・水谷驍訳『ライフ第二次世界大戦史 日本本土への道』22巻、タイムライフブックス、1979年、186頁。
*4 Roy E. Appleman et al., Okinawa :The Last Battle, Center of Military History USArmy, 1948, p.389.
*5 大橋正一『沖縄戦回想 悲涙の戦記―沖縄戦回想第六十二師団通信隊』朝日カルチャーセンター、1990年、214―215頁。
*6 10th Army Okinawa Diary by Lt. Col. John Stevens and M/SGT. James M. Burns, op. cit., 28 May.
*7 『デイリー・ニューズ』1945年5月22日、前掲『沖縄県史 資料編3 米国新聞にみる沖縄戦報道 沖縄戦3 和訳編』162頁。
*8 Joseph Lanciotti, The Timid Marine : Surrender to Combat Fatigue, iUniverse, 2005, pp.85-86.
*9 Ibid., p.86.
*10 10th Army Okinawa Diary by Lt. Col. John Stevens and M/SGT. James M. Burns, op. cit., 31 May.
*11 Ibid., 15 June.
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首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部
保坂 廣志
2024年6月17日発売1,012円(税込)新書判/224ページISBN: 978-4-08-721320-1
首里城地下の日本軍第32軍司令部の真実
2019年10月の火災で焼失した沖縄・那覇の首里城。焼けたのは平成に再建されたもの。
だが、首里城が失われたのはこれが初めてではない。民間人を含む20万人もの犠牲を出した第二次世界大戦の沖縄戦では、日本軍第32軍が首里城地下に司令部壕を構えた。
抗戦の結果、米軍の猛攻で城は城壁を含めほぼ完全崩壊し、古都首里もろとも死屍累々の焦土となった。
ならば、令和の復元では琉球王朝の建築だけではなく、地下司令部の戦跡も可能な限り整備、公開し、日本軍第32軍の戦争加害の実態と平和を考える場にすべきではないか?
この問題意識から沖縄戦史研究者が、日米の資料を駆使して地下司令部壕の実態に迫る。
◆目次◆
プロローグ 首里城と沖縄戦
第1章 第32軍地下司令部壕の建設
第2章 米軍の第32軍地下司令部壕作戦
第3章 米軍が見た第32軍地下司令部壕
第4章 日本軍にとっての地下司令部壕
第5章 首里城地下司令部壕の遺したもの
エピローグ 戦争の予感と恐れ