殺人は償えるのか? 懲役刑はあくまで国家からの罰であって被害者への「償い」ではない…殺人事件の加害者と被害者にとっての謝罪

少年犯罪の取材に長年携わってきたノンフィクションライター藤井誠二氏のもとへ、殺人の罪で服役する水原(仮名)からの手紙が届く。犯してしまった殺人の罪は償えるのか? 二人は手紙のやり取りを通じて考える。

書籍『贖罪 殺人は償えるのか』より一部を抜粋・再構成し、加害者から被害者への謝罪について考察する。

無期囚のテレビドキュメンタリーを観て

某日。水原からの手紙に次のようなことが記してあった。地上波テレビの視聴が許されている時間帯にオンエアされている報道番組についてだった。手紙から抜き出してみる。

(TBSの〕「報道特集」で無期囚の特集をやっていたんですが、見ましたか。自分は見ていてあの番組が何を伝えようとしているのかがわかりませんでした。見ている中で、戸惑い、違和感を覚えました。

「報道特集」については、所内の高齢化の現状をただ流しているだけで、それに対する問題提起などはなく、投げっぱなしの印象を持ちました。50年、60年、〔刑期を〕務めている人がいるということですが、おそらくそれは何度も何度も規則を破り、懲罰を受け続けた結果なのではないでしょうか。

その経緯も示さず、何十年も務めているということをただ見せていることに一抹の危惧を覚えました。

受刑者の運動時間の様子やかすかな「生きる希望」についてもありましたが、そこには反省や被害者、ご遺族に対する謝罪の言葉はなく、その存在すらありませんでした。そのかすかな「希望」という光は、反省や更生、贖罪という大前提のもとそれらを持ち得る者のみに付与されるものであり、体現することで初めて差し込むものです。

反省のない者は、その光を享受するには値しないのではないでしょうか。番組では被害者の存在がすっぽり抜けており、その構成に違和感を覚えました。

私もその番組はたまたまリアルタイムで観ていた。刑務所にカメラが入り、受刑者の半分ぐらいをしめる無期懲役囚の様子を映し出した作品だった。

有期刑の上限が30年になったことから、無期懲役は自動的に30年以上となり、否応なく事実上の終身刑となり、高齢化が進む。獄死する受刑者も多いと番組は伝えていた。

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被害者や被害者遺族は不在だった

人員の不足もあり、同じ無期懲役囚が高齢の囚人の世話をするシーンもカメラは記録していた。病に冒され、医療刑務所に移送された高齢の囚人がその数日後に死亡したという事実も含まれていた。

すでに被害者遺族が亡くなったケースも多く、加害者も記憶がだんだんと薄れ、あるいはアルツハイマー病と診断され、自分の罪名すらわからない受刑者もいる。死刑を紙一重で逃れた彼らの「末路」の断面を垣間見ることができた。

介護施設状態になるのを避けるために、仮釈放数を増やすべきなのではないかというメッセージが番組には込められていたように思ったが、最新の「犯罪白書」によると無期懲役囚の「仮釈放」については大きな上下はなく、微増の傾向にある。

一方で、全体では2005年(平成17年)から6年連続で低下していたが、2011年(平成23年)に上昇に転じ、2022年(令和4年)には62.1%になっている。

受刑者の多くは運動の時間、体力づくりに余念がない。いつか社会に戻れることは死刑囚以外にはかすかな「生きる希望」であり、それで生きつないでいるのだという受刑者の言葉には、なるほどそういうものだろうとの印象を受けた。

しかし、水原の指摘通り、そこに被害者や被害者遺族は不在だった。

長い時間の中で、被害者や遺族、加害者は歳をとり、亡くなっていく。そうでなくとも、もともと交流がなかった両者には年を追うごとに「距離」ができ、加害者のほうは記憶も薄れていく。身内もなく、手紙などの交流もない受刑者が多い。

更生保護施設の長は「一生かけて償いをしなければいけない」というふうに曖昧なことを言っていたが、具体的な「償い」については言及していなかった。

あるいは、更生保護施設の役割は、元受刑者が「娑婆(しゃば)」の居住地や仕事を見つけるまでの橋渡し役であり、被害者サイドとの交渉をするという役割はないので、被害者や被害者遺族の事件後の「時間」をイメージできないのかもしれない。