附属池田小事件で娘を殺された母の「語り」を、殺人事件の受刑者はどう読んだか? 「殺した側」が反芻している被害者遺族の言葉…

2001年に大阪で起きた、8人の子どもたちが殺された附属池田小事件。遺族の本郷由美子さんが前を向くまでの「語り」を、別の殺人事件で服役する受刑者が読んだ。被害者にとって、決して終わらない被害とは。

『贖罪 殺人は償えるのか』から一部を抜粋・再構成し紹介する。

池田小殺傷事件とグリーフケア

私は、一人の犯罪被害者遺族の「語り」(「ハルメク」2017年5月号に掲載)を水原(仮名 殺人事件で長期服役中の受刑囚)に送ったことがある。

2001年に大阪教育大学附属池田小学校で起きた、宅間守─2004年に死刑執行─により8人の子どもたちが殺害されるという事件が起きた。その8人の子どものうちの1人、本郷優希ちゃんの母親・本郷由美子の、事件から15年以上が経過した時点での「語り」だ。

現在、本郷は精神対話士という、悩みなどを抱えた人との〝対話〟を通じて援助をおこなう専門職についている。

1993年に医師らが設立した一般財団法人メンタルケア協会の民間資格を取り、犯罪に遭った人だけでなく、病、事故、災害被害者、アディクションに苦しむ人、老い……さまざまな困難を抱えて生きる人々と対話をする仕事だ。その中には「加害者」といわれる側の人も含まれている。

記事から引用したい。

本郷由美子(以下、本郷) 生きる基盤を喪失して、事件後は見ているものの色も感じなくなったし、人の声もはっきり聞こえない。匂いも味もしない。ものを触っても、熱い冷たい、硬い軟らかいという感覚すらなくなって、自分はもう精神的に死んでいるんだと思いました。

今思えば、これ以上刺激を与えたら壊れてしまうから、何も感じないようにしようという体の自己防衛本能だったのでしょうね。このまま消えてなくなりたいと願ったけれど、死ぬことも何もできませんでした。

質問者 生きる力を喪失した本郷さんが、それでも生きていこうという気持ちになったのは、ある事実を知ったときでした。

本郷 娘は心臓を刺され、即死だったと警察から聞かされていました。でも事件からしばらくして、教室で刺された娘が、致命傷を負いながらも廊下まで逃げ出て、校舎の出口に向かって懸命に歩いていたことがわかったんです。私は娘が力尽きた現場に行き、廊下に点々と続く血の痕をたどりました。私の足で68歩分。

娘はどんな気持ちだったのか、私は少しでも感じたくて、毎日毎日その廊下を歩きました。最初は「お母さん、助けて」と言っている娘の苦しそうな顔しか浮かんできませんでした。でも痛みに寄り添っていくうちに、本当に最期の瞬間まで一生懸命生きようとした娘の笑顔が浮かんできたんです。

ああ、人が生き抜く力はこんなに強いんだって、娘が命がけで教えてくれた。だから私は、ここで止まってはいけない、ちゃんと歩いて行こうと思いました。だけど、あまりにもつらいことだから、「神様、私はこの68歩分をしっかりと生きます。もし願いをかなえてもらえるなら、69歩目を娘と一緒に歩かせてください」と誓ったんです。

質問者 深い悲しみを抱えながらも、歩き出そうと思い始めた本郷さんを支えたのは、黙ってそばにいてくれた人たちでした。

本郷 もう逃げることはできない、ちゃんと真剣に生きようと思ったとき、たくさんの人たちの存在を感じたんです。事件後すぐ駆けつけて共に涙を流してくれた犯罪被害者家族の方たち、ただそばにいてくれた友人たち、下の娘の幼稚園の送り迎えや日常をサポートしてくれた近所の人たち、学校の先生方や保護者の方々……。苦しいときに、静かに寄り添ってくれた人たちの存在が何よりも支えとなり、私は一人じゃないんだと感じることができました。

質問者 自分も誰かの支えになりたいと思うようになった本郷さんは、事件から4年後、対話を通じて傷ついた人をケアする精神対話士の資格を取得しました。さらに11年から3年間、上智大学グリーフケア研究所で学び、グリーフケアの専門資格も取得。これまで娘を事故で亡くした人や病院で終末期医療を受けている人などの元に出向き、ケアを行ってきました。

本郷 大きな喪失の後、「時間が止まってしまった」と多くの方がおっしゃいます。現実の時の流れと、自分の中の時の流れとの差が開けば開くほど、孤独に陥ってしまう。私はその止まっている時間に身と心を置き、対話をすることを心掛けています。私自身、苦しみを一人ではどうすることもできず、誰かに話しては納得することを繰り返してきました。だから相手に寄り添い、話を聞くことが大事な支援になると信じているんです。

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この「語り」を「殺した側」はどう読んだのか

水原はこの被害者遺族の「語り」を読み、どう感じたのだろうか。遺族は、取り返しがつかない喪失やグリーフ(悲嘆)を抱えてしまった後の人生を歩む。歩み方は人それぞれだろうが、水原ら「殺した側」はそういったことを想像することがあるのだろうか。

あるいは、想像させるような矯正プログラムはどれほど用意されているのだろうか。一方で本郷含めて一部の被害者遺族の中では、被害から一定の時間を経過した後、「グリーフケア」を積極的に学ぶ人たちが目につくようになってきた。

しばらくすると、記事を読んだ水原からこんな手紙が届いた。

「68歩」。自分はまず致命傷を負いながら懸命に生きようとする優希ちゃんの姿を思いました。68歩、距離にして30数メートルほどでしょうか。優希ちゃんは「お母さん、助けて」と痛みに耐えながら必死に歩を進めたのだと思います。

どれほど怖かったか、どれほど痛かったか、優希ちゃんの苦しみ、本郷さんの喪失感を思うと言葉もありません。

自分は同じことをしたのです。

見知らぬ人から突然、激しい暴行を受け、命の尽きるまでの間、何を思っていたでしょうか。どれほど怖かったか。どれほど生きたかったか。それらを思いますが、最後にはいつも、こうして自分がのうのうと生きているという事実だけが残るのです。

午前中の作業を終え、食堂で昼食をとっていますと、NHKのニュースが背中に聞こえてきます。

「○○で男性が刺されて死亡した」「○○で女性の遺体が見つかった」

そんなニュースが毎日聞こえてきます。毎日、毎日、人が殺されています。本当に毎日です。それら被害者のそのときの思いや痛みなどを思いますが、反射的に自分のしたことを思います。そしてやはり最後には自分がこうして生きているという事実だけが重く突きつけられるのです。