映画『聲の形』は公開当時から多数の絶賛が寄せられる一方で、物語やキャラクターに拒否反応を覚える人も多くいます。その理由と、映画本編または原作者の言葉で示されている、それに対する「回答」について解説しましょう。



映画『聲の形』ポスタービジュアル (C)大今良時・講談社/映画聲の形製作委員会

【画像】え…っ? こんなカワイイ子が? こちらが『聲の形』で「許すな」とまで言われた女子「川井」です(3枚)

「#川井を許すな」に感じる恐怖

「金曜ロードショー」では2024年8月16日に、大今良時さんのマンガを原作とするアニメ映画『聲の形』が地上波放送されます。本作は劇場公開当時に絶賛が多く出た一方で、「拒否反応」を覚えたという声も少なくはありません。

拒否反応を代弁するキャラクターがいる

 その拒否反応の理由の筆頭は、表面的には「小学生の時にいじめをしていた少年『石田将也』が、高校生になっていじめをしていた相手の少女『西宮硝子』に再会して、友達になろうとして、さらにはその少女からの恋心まで示される物語」であるからでしょう。「いじめの加害者がいじめの被害者と友達になるなんて、ましてや好意を持たれるなんてありえない」という批判はもっともですし、それは極めて普通の感覚です。

 しかし、劇中ではその感覚を代弁してくれる、「植野直花」というキャラクターがいます。彼女は商店街でまさにそのふたりの関係を「友達? いじめてたやつと友達?」などと嘲笑しつつ不快感をあらわにする、作り手側の「批判は当然」だと示した存在だと思えるのです。

 そのほかにも、映画本編では人によっては拒否反応を覚えてしまうキャラクターや展開について、本編または原作者のコメントで明確に「回答」しているポイントがあり、物語が伝えていることは「いじめ」や「恋愛」という枠組みには収まっていないと考えられます。

※以下からは映画『聲の形』の結末を含むネタバレに触れています。鑑賞後にお読みください。

「加害者意識」が強かったふたりが「生きよう」とする物語

 この『聲の形』は「死にたいと思うほどの自己嫌悪に陥っていたふたりが生きようとする」物語でもあります。実は、いじめの罪を背負い続けた石田将也だけでなく、いじめられていた側の西宮硝子も「加害者意識」が強いのです。

 たとえば、原作者の大今さんは『聲の形 公式ファンブック』で、「硝子は被害者ではありますが、自分に対する周囲の振る舞いは、自分がクラスメイトに迷惑をかけているからこそ、つまり硝子自身に原因があるというひどい自己嫌悪があります」と語っています。観覧車で硝子が植野に言った「私は私が嫌い」も、その自己嫌悪の明確な表れです。

 さらに大今さんによると、硝子は「自らの壊したもの」の「カウント」をずっとしていて、そのカウントがついに「死」に達したのは、橋の上で将也がひどい言葉をみんなに投げかけた時だったそうです。その時にも硝子は「自分のせい」だと思って、その後は母の誕生日を祝ったり、妹の結絃の写真をコンクールに応募したりと、「死への準備」を始めてしまいます。

 そして、硝子の命を救った将也は、彼女に「生きるのを手伝ってほしい」と告げました。お互いに傷付けあい、周りも傷付けたと思っていた、コミュニケーションが下手で、自分自身を許せずに死のうともしていた、そんな不器用さでいっぱいの将也と硝子が、この言葉通り「ともに生きよう」とするのです。

 そんなふたりの関係は客観的にはいびつなものかもしれませんが、少なくとも単純ないじめの加害者と被害者という構図だけには収まってはいませんし、恋人同士になって終わりでもありません。この後の可能性がいくらでもあることにこそ、希望を感じられる物語でもあると思います。

 また、将也の「生きるのを手伝ってほしい」という言葉はプロポーズにも聞こえるところですが、大今さんは「将也は硝子に恋愛感情を持っていない」と明言しています。一方で硝子が将也に好意を持ったのはいつなのか、劇中では具体的には示されていませんが、こちらはファンブックでは大今さんが明確に答えています(具体的には読んでほしいので秘密にしておきます)。

 いずれにせよ「今」の将也はかつてのいじめっ子ではなく、硝子に対しても、その妹の結絃に対しても、好意を持たれるほどの献身的な行為の積み重ねがあるのも事実でしょう。



「聲の形 公式ファンブック」(講談社)

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「変わらなくてもいい」というメッセージ

物事や人は一面的ではない

  この『聲の形』の物語は、「人や物事は一面的ではない」ということも伝えていると思います。表面的に見て「なんだよこいつ」「気持ち悪い」と思ってしまったとしても、「それだけではない」別の視点や、大局的な見方は必要だと思うのです。

 それは将也や硝子だけでなく、「川井みき」という女の子にも当てはまります。彼女は将也がひどいことを黒板に書く様子を見ても「やめときなよ」と少し笑みを浮かべながらも結局は止めなかったり、メガネをわざわざ外してから「私、そんなこと(いじめ)しないよ。石田くん、ひどいよ」と言いながら涙を見せたりしており、「偽善者」「クズ」だと感じる方もいたようです。しかし、大今さんはファンブックにて、このメガネを外す行動は「ナチュラルであり、流した涙も純度100%である」と明言していますし、確かに彼女は自身の善意に従っているとも思えます。

 その川井の行動に不快感を持ってしまうのはまだ仕方ないとしても、彼女への勝手かつ短絡的な見方、ましてや過剰な糾弾は、それこそ(劇中で将也が新たないじめの標的になったように)また新たないじめの構図につながりかねないと、危機感を覚えるところもありました。

 地上波放送のたびに、X(旧Twitter)で「#川井を許すな」というタグで彼女を糾弾する声が続出することには(もちろん正当な意見もあるとはいえ)、本作がフィクションであることを踏まえても恐怖を感じます。その川井が、最後に将也に(全部は集まらなくても)千羽鶴を渡そうとする善意を見せたことなどにも、目を向けてほしいです。

「変わらなくてもいい」ことも示している

 そして、この映画『聲の形』の物語は「変わらなくてもいい」ことと、「変わろうとする意思(意志)」の両方を肯定しているともいえます。

 たとえば、植野は物語の最後にも「うーわ、友達ごっこかよ?キモッ」とやはり悪態をつきつつ、相変わらず謝っている硝子に「まあ、それがあんたか」と言い、さらに手話を交えながら「バーカ」と言います。この時に硝子は心からの笑顔を浮かべ、間違って「ハカ」になっていた手話を、「バカ」に直してあげているのです。

 「友達ごっこ」をしているふたりを受け入れられないのは変わらない、でも硝子が謝まることはもう許容するし、それでいて手話で会話をしようとする。そのコミュニケーションの変化も、また尊いものだと思います。

悩みなんて大したことじゃない

 さらに、「死にたいと思うほどのコミュニケーションにおける悩みなんて、実は大したものじゃないかもしれないし、それは何かの積み重ねや、誰かの言葉で解決できることもある」、ということも学べます。橋の上でひどいことを言った石田将也に対して、「永束友宏」は「あんなこと、生きてりゃ何度でもあるさ!」と言ってくれましたし、植野もまた謝る硝子に対して「そんな深刻な話してねーよ」と告げていました。

 そして、将也が勝手に人につけていた「バッテン」が取れたそのときに、彼の視界は広がり、みんなの笑顔も思い浮かびます。周りから見たら「大したことじゃない」じゃないとしても、そのことにやっと気付いて、世界が変わる様はこれほどまでに感動的であり、それはさまざまな悩みを持っている人への福音になり得るのです。

 映画の脚本を手がけた吉田玲子さんも、「許しがたいことはたくさんある。でも、観終わった方が、自分で自分のダメなところを、他人の嫌な部分を、少しでも許せるようになって、少し好きになってもらえたらなぁと思っています」と語っています。そのように、自分や他人を許し、好きになることで、世界はより良く見える……それもまた、現実にある希望でしょう。

 それでも、この『聲の形』の物語を許せないという声もまた尊重するべきだと思いますし、そのままでいいと思います。

 その気持ちが変わらないのであれば、別の物語に触れてみるのもいいでしょう。たとえば、辻村深月さんによる小説を原作としたアニメ映画『かがみの孤城』は悪意をもっていじめをしてきた相手と和解なんてしない、その安易な解決を選ばないことに、作り手の尊い意志を感じることができました。こちらの物語もまた、必要な人に届くことを願っています。