「殺人事件で服役する受刑囚も獄内でマンガを購入できる」――事件に無縁の人間にとっては、そのような事実に思いを馳せることすら無いだろう。だがこの文章を読んで、どう感じただろうか?
『贖罪 殺人は償えるのか』より一部を抜粋・再構成し、罪と向き合おうとする加害者の手記を読む。
マンガを読んで反省できるか?
某日。水原(仮名。殺人事件で長期服役中の受刑囚)からの封書をあける。いつもながら几帳面な字が並んでいる。
自分はこれまで「更生」について根源的な善の「心」が大事だと考えてきました。そこにとてもウエイトを置いてきました。それは大事だと今も考えていますが、この頃は社会適応性も重要なファクターと考えるようになりました。
社会適応性というのは「人間性」の分野で「更生」とは別と考えていました。ですが、平時であれば、根源的な善の心があれば、「更生」に向かうことができますが、社会生活を送る上ではさまざまなストレス、逆境が生じ、その中では善の心だけでは負の引力に負けてしまうと思うのです。
人は逆境の中で弱さが出ます。ストレス下で、ただ耐え、善の心を保とうとするのは違うのではないかと考えるようになりました。昨今「アンガーマネージメント」や「認知行動療法」という言葉をよく目にしますが、怒りに対する適切な処理の仕方、適応的な認知力、対人スキルを身につけ「更生」に向かえる環境づくりをすることも重要だと思いました。
反省などの話ができる同囚がいます。なぜそのような話ができるようになったのか、その同囚と以前、何回か話したことがあるのですが、わからないんですよね。おそらく本やマンガの話をしていて、どういう本を買っているのか聞かれ、「以前はマンガを買っていたけど自分のしたことを考えて買うのをやめた」という話をし、そこから少しずつ被害者に対する思いや、家族に対する思いを話すようになったのだと思います。
水原は社会復帰した後の自身の耐性のようなことを考えていたらしい。いうまでもなく、刑務所の内と外ではまったく環境が異なる。
刑務所はいわば無菌状態で、その環境下でアタマの中だけで自分に耐性をつけたつもりでも、それが煩悩に満ちた「娑婆(しゃば)」で通用するのか。「再犯」をしないと心に誓っても、無菌状態でかたちづくられた心は折れやすい。
付け加えると、水原の手紙を読むと「マンガ」を下等なものと思っているようなので、活字と同じように優劣があり、たとえば手塚治虫作品のような、すばらしい物語を描いた漫画作品と出会うことができていなかっただけだ、ということを伝えた。
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自分がマンガを読んでいる姿に疑問を持つ
すると水原はこんな返事をしてきた。
自分の指す「マンガ」というのは、活字に対するマンガ、ジャンルとしてのマンガではありません。自分が言うところのマンガはただの娯楽、趣味として読んでいるマンガのことです。
活字が高級でマンガが低級とは考えていません。マンガの持つ「力」は認識しています。マンガは好きで以前はよく読んでいました。心が揺さぶられることもあり、深いものです。手塚治虫さんの作品は読んだことはありません。
自分がいささか否定的なニュアンスで書くのは、被害者の方に思いを致したとき、自分がマンガを読んでいる姿に疑問を持つからです。
「人を殺しておいてマンガ!?ふざけんな!」というのが一般論だと思います。ただ、マンガから得られるものがあるのも事実です。藤井さんのおっしゃる通り、すばらしいものもたくさんあります。ですが自分で買ってまで読むべきでないなと、そのお金をたとえば賠償金などに充てるのが筋ではないかと考えるのです。
藤井さん、たとえば自分が「ONE PIECE」や「鬼滅の刃」を毎月買っていたらどう思います?「こいつ反省してないな」と思いますか、それとも反省は別と考えますか。
自分はこれまで「欲」に呑まれて生きてきました。その帰結として今、ここにいます。ですので、(買わないのは)その欲のコントロール、自制の訓練のひとつとしての意味もあります。本音の部分ではやはり読みたいです。
冒頭のただの娯楽、趣味として云々の補足ですが、マンガを読むとき、ストーリーを楽しむのが第一義で、そのプロセスでたとえば勇気や希望、愛や悲しみや痛みなど、そういったものを得ると思います。
なので娯楽が先にあり、そこから得るものはその後にあるので、後ろめたさを覚えます。ニュアンスがきちんと伝わるかわかりませんが。これは前回の手紙に書いた同囚と以前、論を交わしたのですが「んー、やっぱりそうだよな……」と互いになりました。
社会の人から見ると取るに足らない事柄に思えるかもしれませんが、ここにいる自分たちにとっては、そういった一つひとつが重要な意味を持つのです。
私はこの水原の質問には虚を衝かれた感じがした。流行りの漫画作品が世間的に高い評価を得ていて、かつ更生に役立つという理由ならば定期的に読んでも(読ませても)いいのだろうか──。
結論から言えば、構わない、と思う。その漫画作品が「社会」の一部ならば、それに触れさせることも意味があるのではないか。いい作品に出会えば、自分の血肉になる。作品の是非は自分で決めればよい。
が、彼の言っていることの本質は、今自分がおこなっていることは被害者への謝罪の心をより育てるためになるのかどうかを一義的に考えてきたが、もっと多角的に知見を得ることが、迂遠なようでも「贖罪」につながるのではないか、という自身なりの迷いだろうと思った。
そして、漫画作品の世界に熱中するあまりに、他のことを考えられなくなるのではないかという、水原なりの畏れのようなものではないだろうか。