LGBTQという言葉は世間に広まったけれど、日本のスポーツ界は相変わらずマッチョで、理解が進んでいるとは言い難い。中には「カミングアウトは自殺と同じ」語るゲイの陸上選手も。そんなアスリートたちの本音に迫った新刊『わたしたち、体育会系LGBTQです』を監修した、立命館大学産業社会学部教授の岡田桂氏に、「スポーツとLGBTQ」の現状を聞いた。
今までになかったスポーツライフヒストリー
「そうなんだ。じゃあ今度、二丁目連れてってよ!」
特待生として大学でボクシングをしていた貴人(仮名)は、面倒ごとを避けたくてそれまで自身がゲイであることを隠してきた。しかし、大学卒業後、同じ学生寮で暮らしていた親友にカミングアウトすると、友人の反応は想像以上にあっさりしたものだった。
これは書籍『わたしたち、体育会系LGBTQです』の中のくだりだ。本書は9人のLGBTQアスリートへの取材を元に、性的マイノリティであることを隠しながら、大学など高いレベルで競技を続ける苦しさをさまざまな角度から描いた、日本でこれまでになかったノンフィクション・ドキュメンタリーとなっている。
冒頭の友人の言葉は、日本の若い世代の間ではLGBTQへの偏見が比較的薄らいでいることがわかる例だが、それでも当事者からすればそう簡単に公表できることではない。
とくに日本はその傾向が強いようで、熱戦が繰り広げられたパリ五輪において、自らLGBTQと公表した参加者は過去最多193人に上ったが、日本人からはひとりもいなかった。
はたして日本スポーツ界が取り巻くLGBTQの現状とは? 本書を監修した立命館大学産業社会学部教授でスポーツとジェンダーについて研究する岡田桂(おかだ・けい)氏に話を聞いた。
――LGBTQアスリートたちの「恋」と「勝負」と「生きづらさ」をテーマとした本書の監修を依頼された際は、どのように思われましたか?
岡田桂(以下、同) 本書は「月刊サイゾー」にて連載されていたものを大幅加筆したものですが、実は連載当時から“すごいな”と思いながら読んでいたんです。
――どのあたりが「すごい」と?
私も研究者でLGBTQアスリートに取材を試みることがありますが、日本のスポーツ界はまだまだ保守的ですから、当事者の方たちはリスクを考えてなかなかインタビューを受けてくださらない。とくにゲイ男性は何度かコンタクトをしても断られることが多かったです。
そのため、承諾してくれる方を探してこのようなライフヒストリーにまとめることができた本書は、非常に貴重な本だと思います。
――これまでの日本にはなかなかなかった書籍だということでしょうか。
LGBTQアスリート当事者へのインタビューはアメリカを中心とした英語圏なら2000年代からある程度は出ていました。しかし、日本のような東アジア文化圏だと先述のとおり、なかなかインタビューに応じてもらえないことから、こうした本はほぼ出ていなかったと思います。
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日本で性的マイノリティの人々への偏見がいまだ強い理由
――本書は9人のLGBTQアスリートたちの告白という形で綴られていますが、岡田先生は監修する上で、どのようなことを感じられましたか?
ゲイ男性、レズビアン女性、トランスジェンダーの方など性的マイノリティの人々がスポーツ界において直面する困難には、共通するものがあることを確認できました。そして英米の文化とは違う、日本特有の解釈や難しさがあるなと。
――日本特有の難しさとは。
身体的な性別と社会的な性役割を分けて考えるジェンダー概念は英語圏から生まれたもので、2000年代あたりからスポーツの分野でもLGBTQ当事者の声が社会に届くようになり、可視化が進んできました。
しかし、日本や東アジアのスポーツ界は、性的マイノリティのアスリートに関する差別や偏見がまだまだ根強い。そのことがLGBTQアスリートがスポーツに打ち込むことを困難にしていると感じます。
――なぜ、日本にはカミングアウトしづらい社会的風潮があるのでしょうか
カミングアウトをしても、自分の立場が守られたり平等に扱われるという心理的安心感がまだ確立されていないからではないでしょうか。一方で、日本ならではの“あいまいさ”のようなものもあると感じています。
――それは、どういったものでしょうか。
本書の中でも紹介されていましたが、女子スポーツ界には、レズビアンやFtM(Female to Male出生時に割り当てられた性別が女性で、性自認が男性というトランスジェンダー)、あるいは既存の女性ジェンダーという枠組みにフィットしない人たちが、ある程度受け入れられていという状況があります。
女子サッカー界を中心に“メンズ”と呼ばれることもありますが、女子サッカー界以外でもそうした存在はいわゆる“ボーイッシュ”などの言葉でくくられ、偏見の目を向けられることが比較的少ないという特徴があります。女性らしさの枠にはまらなくても、スポーツをしているときは自由になれる――こうした状況は英米とは異なる日本的な特徴だと思います。