殺人事件の被害者遺族が損害賠償を求める民事裁判で勝訴しても、大半の加害者に支払う意思はなく、さらに差し押さえるべき財もなく、刑務所作業報奨金だけではまかない切れず、その判決文は紙切れ同然になっているという。
『贖罪 殺人は償えるのか』より一部を抜粋・再構成し、現在の制度の不備を問う。
事件後の被害者と遺族のゆくえ
水原(仮名 殺人事件で長期服役中の受刑囚)はこんな質問を私に投げかけてきたこともあった。
事件の受け止め方の相違から家族関係が悪化してしまったご遺族の方もおられると思うのですが、そういう方たちについて、どのように悪化してしまったか、お教えいただけませんか。
水原の言う通り、「被害者遺族」の思いをステレオタイプに一括にするのは誤っている。親(保護者)と兄弟、親戚等々、怒りと悲しみの度合いはもちろん共通もするが、差異もある。
社会に名乗り出て裁判を闘う被害者や被害者遺族は全体のごく一部である。自助グループなどをつくったり、社会的に訴えるアクションを起こすこと、こうしたものに参加することをためらう遺族も多い。
「犯罪の被害者」というスティグマをはられることを恐れてしまう、社会の目を気にしてしまう、自分の身に起きたことを忘れてしまいたいなどが主な理由だと思う。社会の目は被害者や被害者遺族に対してもおうおうにして偏見を持つことが多い。被害者や被害者遺族をどこか避けるような風潮は日本社会にはある。
家族が被害者になったことが、家族内で不仲の原因になってしまったケースも私は多く見てきた。性犯罪のケースだと、支えるどころか訴え出ることを親が禁じることも珍しくない。性犯罪という「魂の殺人」の傷に家族が塩を塗り込むような結果を招くこともあるのだ。
性犯罪を誘発したのは被害者のほうだったとか、結婚など将来のことを考えると黙っていたほうがいいという、近親者からの錯誤甚だしい無理解や偏見が二次被害を生み、二重の苦しみを強いられる被害者に私は何人も会ってきた。そこから家族間に溝が生まれ、埋めようがないまま時間が経過していく。逆に親が自らの間違いに気づいていくこともあった。
また、親(保護者)が被害者にかかりきりになり、とくに被害者に幼いきょうだいがいた場合などは、視野からきょうだいの存在が外れがちになってしまうこともある。それほど、加害者と「闘う」ということは、被害者や被害者遺族(家族)の心身を削り、ときには砕き、消耗させることでもある。
(広告の後にも続きます)
作業報奨金と賠償金
某日。水原は損害賠償を求める民事裁判で原告(被害者や被害者遺族)が勝訴しても、大半の被告(加害者)が支払おうとする気もないこと、その財もないこと、刑務所の「作業報奨金」だけではとても払っていけないことも承知しており、そのことについて思うことを書き送ってきた。
民事の支払いの国の立て替えはやはり財源の問題で難しいのですね。報奨金の底上げについてはどうなのでしょうか。もちろん、底上げされても支払いは微々たるものですが、その支払いをするという行為も大事な気がします。
その行為を通して謝罪の意思表示をするとともに、贖罪意識は保たれ、あるいは高まり、また自身の戒めになります。あくまで自己満足で、加害者側の視点ですが。報奨金が上がり、支払いできる環境が整備されれば支払いをする者も増え、贖罪意識も少しは高まるのではないでしょうか。
高額な医療費や一家の大黒柱を失い、つらく苦しい思いをされている方への支払いが少しでも増えればとも思います。
日弁連が2018年におこなった調査によると、加害者に賠償を求めて民事裁判で賠償金額が確定したケースでは、殺人事件では金額のうち13.3パーセント、強盗殺人では1.2パーセント、傷害致死で16パーセントしか、支払われていないことが明らかになった。私の実感とも一致する。
私は、意図的に支払いを拒否する者を何人も取材してきた。民事訴訟の損害賠償金の支払い命令(判決)は紙切れと同じで、強制力はないと悪知恵をつけている加害者が多いからだろうか。
納得がいかない賠償金は払う必要がないなどと入れ知恵している刑事専門弁護士がいることも加害者から聞いたことがあるが、「法や正義の番人」として、そんな弁護士はごく少数だと思いたい。
その上、支払い義務には10年の時効があり、10年目に再び被害者は自腹で裁判を起こし、支払い期限を延長しなくてはならない。もちろん、実際に支払い能力そのものがない者も大勢いる。ちなみに犯罪などの不法行為で生じた賠償金(債務)は自己破産で免除してもらうことはできない非免責債務である。