NHKで好評放送中の大河ドラマ「光る君へ」。中盤を迎えた物語は第三十一回「月の下で」で、ついに主人公・まひろ/紫式部(吉高由里子)が「源氏物語」の執筆に着手することとなった。そのきっかけを作ったのは、これまでまひろと固い絆で結ばれてきた藤原道長。朝廷の最高権力者となった道長自身も大きな転機を迎えつつある今、演じる柄本佑が、まひろとの関係を中心に役への思いや撮影の舞台裏を語ってくれた。
-第三十一回で、道長がまひろに物語の執筆を依頼したことが、「源氏物語」の誕生につながりました。執筆を依頼する際、道長の中には、一条天皇(塩野瑛久)の目を娘の中宮・彰子(見上愛)に向けさせたいという政治的な思惑やまひろに対する個人的な思いなど、複雑な感情があったと思いますが、演じる上でその辺をどう意識しましたか。
演じている最中は、それほど細かく計算していたわけではありません。ただ、今改めて振り返ってみると、政治的な思惑がまったくないとはいえませんが、やっぱりそれとは違うベクトルで頼みに行ったような気がします。道長は元々、自分の家族を政に関わらせたくなかったにもかかわらず、安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)や姉の詮子(吉田羊)の勧めにより、彰子を入内させることになりました。しかし、そうなった以上は、娘に幸せになって欲しいとも思っているわけです。
-なるほど。
結局、道長も娘の幸せを願う1人の父親なんですよね。そんな道長にとって、他の人には見せられない弱さや本音を打ち明けられる唯一の相手がまひろです。だからこそ、「帝のお渡りもお召しもなく…」と、彰子のことをまひろに相談できたわけです。「お前が最後の一手だ」とも語っていますが、「最後に頼れるのはまひろしかいない」という思いで執筆を依頼したのでしょう。僕自身も、「うちの娘のために頼む!」と懇願する父親になったつもりで演じていました。
-これまで、離れていても互いに月を見上げるシーンの多かったまひろと道長ですが、第三十一回ではその点について2人が語り合うシーンもありました。
あそこで道長が語る「誰かが、今、俺が見ている月を、一緒に見ていると願いながら、俺は月を見上げてきた」というせりふにある「誰か」は、明らかにまひろを意識しています。さらに、亡くなった直秀(毎熊克哉)に思いをはせるくだりもあり、今までの2人の関係を一度決算し、改めて前に進む推進力を得るようなシーンでした。長いシーンだったこともあり、撮影には時間をかけ、吉高さんとも協力しながら切磋琢磨して作り上げました。おかげで、僕にとっても印象的なシーンになりました。
-まひろ役の吉高さんとの共演の感想をお聞かせください。
まひろと道長のやり取りは、強度のある長いシーンが多いのですが、吉高さんのお芝居には毎回、「こういう表情になるのか」と驚かされると共に「だったら道長はこういう表情になるな」と新たな発見をさせてもらっています。そんなふうに、2人のシーンでは、吉高さんに多くのものを引き出してもらっています。
-いよいよまひろも、内裏に上がることになりそうですが、内裏での吉高さんの印象は?
内裏で「源氏物語」を執筆するまひろを撮影しているときの吉高さんは、“超”紫式部です(笑)。美しい立ち姿はもちろんですが、それ以上なのが執筆中の姿。スタジオで座って筆の練習をしている吉高さんを初めて見た時、有名な紫式部の像そっくりで、驚いたほどです。しかも、撮影が進むにつれ、それがどんどん奥行きを増している気がして。まひろが本気で「源氏物語」に取り組んでいるときのお芝居には、圧倒されっぱなしです。
-道長とまひろの距離感も、離れていた今までとは変わってきそうですが…。
まひろが内裏に上がってからは、距離が近づき、まひろの局を訪れる機会も増えるので、今まで築いてきたソウルメイトとしての信頼関係が、より強固になっている印象があります。
-まひろの娘・賢子が実は道長の子だったという驚愕の展開についてはどんな印象を?
大石(静/脚本家)さんや制作統括の内田(ゆき)さんから、事前に「そうなるかも」と聞いてはいました。最終的に決定したと聞いたときは、非常に大きなポイントでもあることから、皆さんの覚悟を感じ、そういう決断をするこのチームがより好きになりました。
-撮影が進む中で、道長の変化を感じている部分はありますか。
これまで言われてきたヒール的な人物像とは異なる人間味あふれる道長としてスタートし、巡り巡ってついに権力の頂点に立ちました。ただ、政治的な工作を引き受けてきた姉の詮子が亡くなり、様々な問題を1人で抱え込むようになった今、当初の政治に前のめりではないのんびり屋の“三郎”としての人間性が、より大事になってきたと感じています。
-というと?
頂点には立ったものの、「民のためのよき政を行う」というまひろとの長年の約束を果たすには、彰子を入内させたときのような政治的な工作を自ら行わなければなりません。ただそうすると、本来の道長らしさとは乖離(かいり)した部分が、嫌でも出てこざるを得ない。それを僕自身、演じながら肌で感じているところですが、それは同時に、道長の悩みともリンクするような気がしています。とはいえ、頂点にいる今も、元々備わっている“三郎”としての人間性は変わらないはず。だからこそ、最近は“三郎”の部分をより意識するようになってきました。
-頂点に立った道長は、娘を中宮にするなど、その裏にある思いは別にしても、やっていることは権力者として剛腕ぶりを発揮した父・兼家(段田安則)と変わらないようにも見えます。道長を演じる中で、兼家を意識する部分はあるのでしょうか。
道長が「父上と同じことはしたくない」と言う場面も何度か出てきますが、「結果的に同じようなことをしている」ということと「そうはなりたくない」ということの整合性をどう保つのか。その点は非常に根の深い問題です。僕自身は今、家のために政をしていた兼家に対して、自分は民のための良き政をする、という出発点の違いで整合性をとって演じているところです。ただ、それが最終的にどうなるのか、最終回まで終わってみないとわかりません。そのとき、何か見えてくるものがあるのか、僕自身も楽しみにしています。
(取材・文/井上健一)