夏休みの自由研究、日々の宿題にAI禁止では頭のいい子は育たない…親が気づくべきAI時代に生き抜ける子どもを育てる教育環境

計算の速さなど、もう、なんの売りにもならない? 

このようにDX化が進んだ学校を中心に、試験に電卓や参考書などの持ち込みをOKとしているところが増えています。とくに電卓に関しては、今後あらゆる試験の場で持ち込みが前提となると私は踏んでいます。

電卓を持ち込めば、計算の速い子どもの優位性が失われます。これまでの試験では、数学でも理科でも計算の速い子どもはいい成績が取れたのに、これからは計算が遅い子どもに差を縮められてしまいます。

でも、それでいいのです。なぜなら、計算はAIの得意分野だからです。計算の速さなど、なんの売りにもならない時代が来るためです。

ビジネス界より進んでいる教育現場は、おそらく、みなさんが考えているよりずっとレベルの高い子どもを欲しがっています。電卓の「あり・なし」などとうに超えて、「ここは自分で考えて、ここは電卓に計算させればいい」という判断ができる子どもを求めているのです。

とはいえ、現入試において計算をしっかりやることはまだまだ大切です。一部の学校では変化が起きていると言いましたが、「計算力を武器にできる子」はゼロにはなりません。突出したスピードで正しく計算ができる子は、どこかで絶対に必要とされます。その数は減るでしょうが、むしろ強みは増すかもしれません。

要するに、「戦い方が多様化している」ということです。

結果的に勝てればいいのであって、その方法は多様。ただし、結果が問われるからこそ、その方法が自分に適しているかどうかを見極めることが、非常に大事になってきます。

Jリーグで成績を残しているあるサッカーチームは、その典型です。今は「魅せるサッカー」と言われる、きれいな戦い方がプロサッカー界の主流です。ところが、そのチームは、時代に逆行しているとも思える方法で選手を育成し、成果を上げているのです。

試合での戦い方も泥臭く、汚く見えるプレイもするけれど、結果的に勝っている。まさに明確なポリシーがあるわけで、そのようなやり方に適していると思える選手にとっては、いいチームとなるわけです。

灘中学校の入試は2日間にわたって行われますが、その初日の国語試験は、難しい漢字やことわざなど、徹底的に知識を問うものです。インターネットで調べれば事足りる知識について出題する学校が減っている中で、灘中学校はまったくブレることなく国語の知識を問い続けています。読解力や思考力はもちろん大事ではあるけれど、それ以前に、「日本人であるならば日本語の知識は必須である」というポリシーが貫かれているのです。

このように、学校や企業といった受け入れサイドが多様化しているのに対し、そのポリシーが自分と合っているかどうかを見誤れば能力は生かせません。親として、我が子の適性を見極めることが、以前にも増して大事になってくるのです。

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これからの子どもを問う「試験」とは

中学受験に批判的な人の多くは、「子どもの頃から詰め込み学習をするのは良くない」と考えているようです。しかし、それは今の中学受験の現実をまったく理解していない意見と言わざるを得ません。

中学受験に限ったことではありませんが、教育現場では「知識合戦はやめよう」という方向に舵を取っており、それぞれの学校が独自のカラーを打ち出しています。そこでは、詰め込み学習をしてきただけの知識偏重の子どもは歓迎されません。

それに、一口に私立中学校と言ってもさまざまで、お行儀のいい伝統的な教育に重きを置くところもある一方、枠を超えた新しい試みをどんどん取り入れているところもあります。

子どもたちの個性に合わせ、受け皿はいろいろ用意されているのです。ただ、いずれにしても、AIに潰されない子どもを育てようとする意識は共通しています。あとは、親が我が子に最適な場を見つけられるかどうかです。

これからの時代に重要なのは、AI時代に生き抜ける子どもを育てる教育環境を選ぶことで、単純に高い学歴を持たせることではありません。

それがよくわかっている親は、これまでのように偏差値だけに注目し、「我が子の学力内で最も偏差値の高いところを狙わせる」という方法に絞ることはしなくなっています。新しく到来する社会における我が子の可能性を見極めた上で、考え得る最良かつ最大限の学びを与えているのが、今の中学受験の姿なのです。

中学校側の教師たちも、大学ですらゴールではあり得ず、通過点として捉えているようです。社会に出てからも転職するのがあたりまえの時代ですから、そうした前提に立った上で「この子たちが25歳になったとき、30歳になったときどうなっていてほしいか」を考えて教えているのが伝わってきます。

大学も同じです。少子化で存続が問われる中、どこの大学も「自分たちらしさとはなにか」を模索しています。そして、そこに合う学生を求めています。

当然、入試の問題についてもそれにかなう設定をしてきます。だから、東大に合格してもMARCHに落ちる人も出てきます。

それが、これからの時代。少なくとも、東大を出ただけで生き残れるという時代ではありません。

文/富永雄輔 写真/Shutterstock