魅力的なサッカーで注目のJ3福島の“新米監督”。川崎一筋だった寺田周平の就任までの笑いあり涙ありの裏話【インタビュー1】

 福島のサッカーが今、面白い。

 そんな声が囁かれている。

 2014年のJ3参入後、最高成績は5位で、昨季は15位。元々、テクニカルで組織的なサッカーを標榜しているイメージのあった福島だが、クラブはさらなる高みを目指し、今季は新たな監督を招聘した。白羽の矢を立てたのは、J1川崎で鬼木達監督の右腕として数々のタイトル獲得に貢献してきた寺田周平である。

 寺田にとっては初の監督挑戦。そのなかで、川崎で採用していた4-3-3を福島に導入し、技術を大事にするサッカーを展開。波はあるが、主体的に攻めるスタイルで観る者を魅了している、新米監督とクラブの挑戦を追ってみた。

――◆――◆――

「あれ、なんて言うんでしたっけ?」

 黒々と日焼けした顔に相変わらず笑顔が似合う。長身でスラっとした体形も変わらない寺田周平は、6月23日に49回目の誕生日を迎えていた。プレゼントにスタッフや選手から監督室で使える椅子をもらったらしい。

「ゲーミングチェアですかね」

 広報スタッフから返された男は、「そうそう」とまた笑顔を作り、冗談を飛ばす。

「仕事をしやすくなって。あと寝やすくもなりましたね。もう初老なんで(笑)」

 午前中のトレーニングに全力を注ぎ、午後は映像の分析などをしていると、どうしても睡魔が襲ってくるのだという。20分ほど仮眠を取り、またコツコツと作業に当たる。そのルーティンは川崎でコーチを務めていた時と変わらない。

「朝起きるのも早くなっているのかな? 5時半ぐらいに起きて、寝るのは0時くらい。4、5時間の睡眠で目が覚めちゃうんだよね。でも朝のほうが意外と作業に集中できるから、朝起きてまた映像を見返したりして。

 監督になって忙しくなった? うーん、でも、コーチの時も映像はよく見ていたし、ただそういう作業が直結するというか、コーチの時は色々幅広くというようなイメージだったけど、監督になるとよりひとつのことを深くと言うか、そういう部分はちょっと違うかなという気はしますね。

 よく周りの人にも聞かれるんですが、そりゃ監督は大変ですよ。でも、苦じゃない。本当1日があっという間で、充実している。明らかに大変になっているはずなんですが、苦しくないから頑張れるという感覚ですかね。

 それにやらないと不安なんでよす。できることはやり切っておきたいし、できる限りの準備をしておきたい。それで結果が出なかったら仕方ないけど、できる限りのことをやって試合を迎えたい。でもそれって選手も、コーチも一緒ですよね」
【動画】寺田監督らからのメッセージ
“川崎山脈”と称された屈強な3バックを形成した現役時代を含め、川崎一筋25年を貫いてきた。それこそクラブと苦楽をともにしてきた。

「選手の時からフロンターレにずっといて、小さい頃に神奈川以外に住んでたこともありましたけど、基本的には小学校の低学年からずっと神奈川。中、高、大学全部神奈川で、他の地域で生活するのも初めてでした。

 だから不安と楽しみな感情、両方がありましたね。でも、いざ福島に来てみて、良かったなと実感しています。人生経験が広がるのは当たり前として、出会う人もそうですし、こういう生活もあるんだなと、色々な発見ができて、本当に良かったと感じています。

 生活もしやすいし、山の景色も良い。こんな山好きだったんだと自分でもびっくりするほどで、毎日通勤も楽しみなんです」
【PHOTO】現地で日本代表を応援する麗しき「美女サポーター」たちを一挙紹介!
 川崎のために力を注いできた男に転機が訪れたのは昨年末だった。現役時代に師弟関係を築き、現在は福島のテクニカルダイレクターを務める関塚隆氏、そして福島の玉手淳一強化部長から監督のオファーを受けたのだ。

 光栄な話ではあるが、川崎を離れることに迷いはなかったのか。誤解を招かないようにと前置きしながら、指揮官就任の顛末を振り返ってくれた。

「表現が難しいのですが、正直な言葉で話すと、迷いはなかったと思います。S級ライセンスを取ったあとも、フロンターレのトップチームのコーチなどをやらせていただいて、本当に色々な経験をさせてもらい、感謝し切れない想いです。ただ、年齢を考えた時に、もし監督の話をいただけたら、基本的にはチャレンジしようと決めていた部分はあったんです。それは去年の夏あたりからフロンターレの強化部にも伝えさせていただいていました。具体的にどういうオファーをいただけるかは分からなかったですが、J2、J3、JFLに関わらず、挑戦しないと後悔するという想いがありました。

 それに福島が目指すスタイルは自分のイメージとも近かった。なんだか面白いサッカーができそうだなと。だからこそ様々な意味でスタートを切るには最高のチームだなと。関塚さんとまた一緒にやれることもそうですし、こんな巡り合わせがあるのかと、表現が難しいですが、運が良かった部分があったと思います。やっぱりJリーグの監督って60席しかないわけで、やりたいと言ってやれるものではない。それにS級の同期もみんな監督を目指している。だから断るっていう選択肢を僕は持つことができませんでした。

 それに監督経験がない自分にオファーをくれたのは、相当なチャレンジだと思うんです。その期待に応えなきゃいけない、自分を選んで良かったって感じてもらえるように、頑張らなきゃなっていう気持ちにもなりました」
 昨シーズンの佳境に密かに固めていた想い。それは一蓮托生で歩んできた鬼木達監督にも伝えていた。

「もちろんオニさんには最初に相談と言いますか、意思を伝えさせてもらいました。オニさんは『そうか。俺は正直残ってほしい気持ちがあるけど、周平のチャレンジを後押ししたい』と言ってくれました。そこからは、“監督とは”ではないですけど、色んな話をしてくれました。

 4年間、オニさんの隣で本当に貴重な経験をさせてもらい、いざ監督になる時には、心得ではないですが、色んなこと聞くことができた。まさに最高の環境で、コーチをやらせてもらっていたんだなと改めて実感しましたね」

 昨年末、天皇杯を制し、韓国での蔚山現代戦でACLのグループリーグの6戦無敗での突破を決めた川崎は、2023年の全日程を終えた。その間、新天地が決まっていたからと言って、寺田がコーチとして最後までチームのために働いたことは言うまでもない。

 麻生の練習場で恒例の解散式が行なわれた時、寺田もチームの前で最後のスピーチをした。もっともそのエピソードもなんとも彼らしい。

「あの時、僕を含めてコーチングスタッフ4人がチームを離れることになっていたんですよね。シノさん(篠田洋介フィジカルコーチ)と高桑(大二朗GKコーチ)さん、あと吉田勇樹(コーチ)はアカデミーに行くことになっていて、みんな前に出て、挨拶をさせてもらいました。

 そうしたらマネージャーが気を使ってくれたのか、僕の順番を最後にしてくれたんです。僕も感極まってしまうかなと想像していたんですが、前に話した3人が号泣していて、それを見たら逆に冷静になってしまって。あとで周りから『全然泣かないじゃないですか』って突っ込まれたんですけど(笑)、自分の伝えたかったメッセージをしっかり話すことができました」

 いつでも笑顔が似合う男は、こうして川崎と良い別れを果たし、“新米監督”として希望を抱きながら福島へと旅立ったのである。

■プロフィール
寺田周平 てらだ・しゅうへい/1975年6月23日、神奈川県生まれ。東海大を経て、川崎一筋でCBとしてプレーし、日本代表にも選出。引退後は川崎でアカデミーの指導などを務めながら、2020年からはトップチームのコーチとして鬼木達監督を支えた。今季から監督初挑戦として福島の指揮官に就任。

取材・文●本田健介(サッカダイジェスト編集部)

■8月31日はスタジアムへ!
8月31日(土) 18:00
北九州戦(とうほう・みんなのスタジアム)
は「集まれ5,000人!ユナまつり」と題し
様々なイベント(花火やベースボールシャツをプレゼントなど)を企画中!
詳細は下記へ
https://fufc.jp/lp/2024/0831/

【記事】「俺の目は間違ってねぇ」内田篤人が数年前に日本代表入りを“確信”した俊英は?「森保さんも『上まで来る』と言ってたらしい」

【PHOTO】日本代表を応援する麗しき「美女サポーター」たちを一挙紹介!