「振られても、相手のことが好きなら失恋ではない」詩人・谷川俊太郎が考える恋を失うこと、恋することの孤独とは

詩集『二十億光年の孤独』でのデビューから70年余り、現役の世界的詩人・谷川俊太郎氏。存在の本質や愛の真髄に瑞々しい感性とユーモアで迫る名エッセイ45編を収録した『カラダに従う』が発売され、好評だ。
書籍より失恋について書かれたエッセイ『失恋とは恋を失うことではない』から抜粋・再構成し、お届けする。

失恋とは恋を失うことではない

失恋のすべてを通じて確かなことは、僕等はどんな失恋をするにしろそれは恋を失うことではないということです。失恋とは恋人を失うことかもしれないが、決して恋を失うことではない。

僕の友達の一人に失恋について奇妙な誤解を抱いていた奴がいました。ある時失恋について話していたのですが、妙に話が食い違うのに気づいたのです。そこでよくよくその友達に問いただしたところ、彼は失恋とはふられることではなくてふることだと信じこんでいたというのです。

つまり彼によれば失恋とは恋を失うと書く、ところが相手にきらわれる方は、きらわれるだけで、自分の方はまだその相手を好きなのだから恋を失ったことにはならない、だが反対に相手をきらう方はもはや相手を恋することは出来なくなっているのだから、これこそ本当に恋を失っているのだ、というのです。

彼はだからふった方よりもふられた方がまだ幸福だと云(い)い張るのです。彼はふだんから逆説的な言葉をもてあそぶ見栄坊(みえぼう)でしたから、或(あるい)は彼はその時失恋していて、(彼の云う意味でなく、ごく普通の意味で)そのためにそんな新説をひねくり出したのかもしれません。

しかしそれはともかくとしてこの新説はその逆説的な云い方で、妙に本当のところをついているように僕には思えるのです。

恋している者は偉大な創造者です。しかし恋されている者は、もし恋されているだけならば、哀れな享受者にすぎません。恋している者は相手のほんの小さな表情、とるにたらない言葉などをいちいち気にかけながら、そしてそのため相手に完全に支配されているように見えながら、実は自分ひとりだけで自分の生を類ない喜びで一杯にすることが出来ます。

恋はそれがどんなに苦しいものであろうとも、喜び、もっとも尊いもっとも満ちあふれた喜びに他なりません。たった一枚の薄汚れた写真を前にしているだけで、僕等は何と完全に充実した数時間を、或は一日をさえすごせることでしょう。

或はまたその人のほんのかすかな眼の動きを思い出して銀座から青山一丁目までを足の疲れなど一秒も感ぜずに、喜びにみたされたまま歩いてしまうかもしれません。誰が何時こんなにみちあふれる生の瞬間をもつことが出来るでしょう。たしかに恋している者こそ幸福です。

恋している者はよく生きることが出来るのです。それがたとえむくわれない恋であろうとも。いやむしろ恋にはむくわれるなどということはないのだ。僕等は自分で種子を播(ま)き、自分でその生長を楽しみ、自分で収穫し、その収穫を自分のものに出来る。恋とはそれ程孤独なものなのかという人がいるかもしれません。

恋は自分のためのものではない。恋はひととひととのつながりのためのものではないのか。

(広告の後にも続きます)

それだけで僕等はもう幸福

僕は恋と愛とを切り離して考えたくはありませんが、また全く混同して考えたくもありません。恋の前では僕は多少ふざけて気軽に話すことも出来る。しかし愛の前では愛の前になどと云うこと自身もう気がひけますが、僕等は愛の前にいることなど出来ない筈(はず)ですから──僕は襟を正さねばならない。

そして愛についてなら僕はもっとずっと口数少なになる。僕は本当は愛のまわりを避けて通りたかった。しかしそれはずるい考えでした。恋はおそらく恋だけでは孤独なものなのです。しかし愛は……どんな時でも、どんなところでも、僕等は生きてゆく限り常に愛にぶつかる、僕等は恋の中でも勿論愛にぶつかるのです。

そして恋を孤独な「結晶作用」としてだけ考えたりせずに、それをひととのつながりとして考えようとすれば、どうしても愛という言葉をもち出さない訳にはいかないのです。しかし今は一寸(ちょっと)愛をそっとしておきたい。僕は先ず恋から入らねばならないのです。

恋は、愛ではなく、恋は本質的に孤独なものなのではないでしょうか。

僕等は、今此処(ここ)に自分のもっているものを恋いはしない。僕等はいつも自分から離れているものを恋するのです。それは物理的な距離を必ずしも意味しない。かたわらにひとが座っていても、もしそのひとの心が遠ければ僕等は恋するのです。

恋はだから飢えや渇きに似ています。僕等は先ず自分が満たされていないことに気づくのです。そしてやがて僕等は恋すると同時に恋されるようになるかもしれない。しかしその時でさえまだ恋は満ち足りない。

心も体も一緒にいられる束の間を除いて、僕等は心の遠い時は心を恋し、体の遠い時は体を恋する、いや心とか体とか分ける以前にもう僕等の存在自体が自分をとりかこむ遠さに過敏になってしまいます。

僕等はそのために自分は自分以外の何かとむすびつこうとしているのだと思います。

しかし実は僕等は一体どれだけ自分の情念と夢の柵の中から外へ出ているでしょう。恋人の写真を前に想いにふける時、僕等は自分を孤独だとは思わないかもしれない。

しかしその時僕等は決して自分以外のものと結ばれてはいない。僕等は自分の情念の中を酔っぱらって千鳥足で歩いているにすぎないのではないか。僕等は何か自分ひとりの孤独な仕事に熱中しているのではないか。

恋は僕にとっては二重の意味で孤独なもののように思われます。第一にそれは自分とひととの間の遠さを──そしてそればかりでなくもっと得体の知れない遠さの群が自分をとりまいていることを意識させるという点で人を孤独にする、そして第二にそれは一見他とのつながりを求めているように見えながら、人をかえって自分の中に閉じこもらせ、その中でむしろ人を夢想させるにとどまるという点で孤独です。

もし人がひととのむすびつきを求めて考え、或は行動し始めたら、それはもはや恋ではなく愛かそれともまた慾望か何かほかのものになり始めるように僕には思えるのです。

もはや恋しなくなった時、はじめて本当の愛がはじまる、と云ったら抽象的すぎるでしょうか。

恋する者は自分一人だけで幸福になれるのではないでしょうか。僕等は失恋して悲しむかもしれない。しかし僕等はもともとひとりだったのではなかったか。そして恋することが出来る、それだけで僕等はもう幸福な筈(はず)です。