歴史書にはシャビ・アロンソは、1999年12月、ログロニェスとのコパ・デル・レイの試合でレアル・ソシエダのトップチームにデビューしたと記述されている。しかしそれは公式戦におけるデビュー戦で、実質的にはマリ代表との絵に描いたような強化試合が初舞台だった。
アロンソは終盤に投入され、ユース時代に「才能という点では上」と評価されていた兄のミケルと一緒にピッチに立った。印象的だったのは、終了間際のソシエダのFKの場面だ。年上のチームメイトたちに対しても臆することなくキッカー役を買って出て、あわやというシュートを放った。
その翌シーズン、アロンソはレンタル修行先のエイバルで活躍。父親のペリコの後任として招聘されたジョン・トシャックの要請を受け1月に復帰した。
以降、ソシエダの中盤に君臨し、2002-03シーズンには、主力の1人として、ラ・リーガでの2位躍進に貢献。しかし飛ぶ鳥を落とす勢いの若き司令塔を長く引き留めるのは不可能で、その翌シーズン終了後に、リバプールに売却された。
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ラス・パルマスでのスペイン代表の合宿中に移籍することが発表された時、私は、当時のフロントを強く批判した。そんな中、「出て行きたいと言ったのは僕だよ、ミケル」と舞台裏を明かすメッセージを送ってきたのは、当のアロンソだった。
当時からピッチを離れてもバランス感覚は天性のものがあった。その後、クラブレベル、代表レベルでありとあらゆるタイトルを獲得。バスクサッカー史上最高の選手の称号を得るに至った。
現役時代に培ったのはそれだけではない。スポンジのような吸収力を発揮し、ラ・リーガ連覇を経験した父親譲りの勝者のDNAに加え、リバプール時代にラファエル・ベニテスの下で守備組織の構築や球際の激しさ、ハードワークを、レアル・マドリー時代にジョゼ・モウリーニョの下で競争心やモチベーションの喚起を、カルロ・アンチェロッティの下で調整力や人心掌握術を、そしてバイエルン時代にグアルディオラの下で戦術眼を磨いていった。
その見事なキャリア形成は、将来指導者へ転身することを見据えて、移籍先を選択していたかと思えるほどだ。
したがって現役引退後、指導者の道を歩んだのも、マドリーの下部組織を経てソシエダBで本格的にそのキャリアをスタートさせたのも既定路線だった。
ホキン・アペリバイ会長をはじめとした上層部にとっても、アロンソの招聘は将来的なトップチームの監督就任を見据えた人事でもあり、就任2シーズン目に半世紀以上ぶりに2部昇格に導いたことでその期待はさらに膨らんでいった。
しかし予想外のことが起きた。当初アロンソまでの繋ぎと位置付けられていたイマノル・アルグアシル監督が大成功を収め、ファンからも高い評価を得たことだ。将来を見据えてキャリアビジョンを描くアロンソは、この時もすっぱりと決断。翌シーズンのソシエダBの3部降格と同時に退団を決意した。
そしてその数か月後、降格圏内をさまよっていたレバークーゼンから白羽の矢が立てられ、再建を成し遂げると、昨季に無敗でブンデスリーガを制覇。ヨーロッパリーグは決勝ではシーズン唯一の黒星を喫したものの、DFBポカールとの2冠を達成した。
アロンソは、ビッグクラブから熱視線を浴びる今を時めく監督だ。現状、ソシエダには手が届く存在ではなくなった感があるが、それもまた運命だ。触れるものすべてを黄金に変える若き名将から目が離せない。
文●ミケル・レカルデ(ノティシアス・デ・ギプスコア)
翻訳●下村正幸
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