アメリカに行った最初の日本人――それはジョン万次郎(中浜万次郎)。少年時代の思わぬアクシデントが後の功績につながっていき……。
明治大学教授の齋藤孝さんが子ども向けに歴史人物の意外な10代の話を楽しくまとめた『子どものころはしょぼかった!? すごい人の10歳図鑑』(サンマーク出版)より一部抜粋、再構成してお届けする。
これが、わたしの人生を変えました
ジョン万次郎(中浜万次郎、1827〜1898) 日本生まれ、通訳者・教育家。アメリカに行った最初の日本人。日本に戻ってからは英語の翻訳家・通訳者や教授として活躍した
万次郎は土佐(今の高知県)の貧しい漁師の家に生まれました。9歳のときにお父さんが亡くなり、ますます生活が苦しくなります。万次郎はいろいろな仕事を引き受け、家計を助けようとしました。
14歳のとき、村のお役人さんにたのまれた米つき(玄米を杵でついて、ぬかを取り除くこと)の仕事で大失敗してしまいます。仕事がたまっていたから、なんとか早くぬかを取り除けないものかと、うすに砂を入れてみたんです。そうしたら、早くぬかが取り除けたのはいいけれど、砂と米が混ざって、食べられなくなっちゃった。
カンカンに怒ったお役人さんからダッシュで逃げた万次郎。砂浜で「仕事をクビになっちゃったよ、どうしよう……」と頭を抱えているところに、助けてくれる人が現れました。
「仕事がないなら、漁を手伝うか?」
こうして、万次郎は漁師たち4人とともに漁船に乗って、漁を手伝うことになりました。
「これでお金をたくさんもらって、お母さんに少しはラクさせてあげられるぞ」
そう思った万次郎でしたが、なんとこのはじめての船出で嵐にあってしまいます。
小さな舟は荒れ狂う波にもまれ、舵を取るも流されてしまいました。
もはやここがどこかわかりません。見渡す限りの大海原。数日間の漂流の間に、水も食べ物も尽きてしまいます。なすすべなく波に揺られながら、喉はカラカラ……。
想像しただけで大変だよね。
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日本人ではじめてアメリカに行ったよ!
もうダメかと思ったとき、万次郎たちは島を見つけます。そこは岩がゴツゴツした無人島でした。島に行けば水があるはずだと思った彼らは近づきますが、岩にぶつかって舟はバラバラに! なんとか泳いで島にたどりついたのでした。島では雨水がたまった場所を見つけ、また、島にいるアホウドリをつかまえて食べました。まさに無人島サバイバル生活。これを143日間も続けたんです。
助けてくれたのは、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号でした。
当時、日本は鎖国をしており、万次郎たちは外国の人を見たこともなければ言葉もまったくわかりません。でも、万次郎は身ぶり手ぶりをまじえて、一生懸命コミュニケーションをとろうとしました。船長のホイットフィールドさんはそんな万次郎を気に入って、アメリカに連れていくことにしたんです。「ジョン・マン」とは船の名前にちなんでアメリカ人たちがつけた愛称です。
万次郎は日本人ではじめてアメリカを訪れ、教育を受けることになりました。英語はもちろん、測量や航海術なども学び、卒業後は捕鯨船に乗って世界中の海をわたります。
日本に帰ってきたのは24歳のときです。日本は鎖国中でしたが、開国に向けて動きのある時期。万次郎は貴重な存在でした。アメリカで学んだことを日本に伝え、通訳者としても活躍します。
漂流という不幸な出来事の中でも、いつも順応しながら運命を切りひらいてきた万次郎。素直さがあったからこそ、新しいことをどんどん吸収し、唯一無二の存在になったんだろうね。
・出典
『ジョン万次郎 民主主義を伝えた男』小沢章友作 十々夜絵 講談社青い鳥文庫
『海を渡ったサムライ魂 ジョン万次郎』マーギー・プロイス著 金原瑞人訳 集英社文庫
ジョン万次郎資料館ホームページ
文/齋藤孝