とても悲しい。現在公開中の、大人の観客から賛否両論を呼んでいる「映画クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記」は、個人的にはまったく受け入れられない作品だったからだ。
いったいどうしてしまったのか。今回はもう作り手の「クレヨンしんちゃん」という作品への愛情も、題材となった恐竜への敬意も、ましてや良い映画を作ろうとする最低限の誠意さえもないのではないかと、疑いたくすらなった。こんな「クレヨンしんちゃん」映画が生まれたことに本気で失望したし、これを良しとした関係者に「現場は大丈夫なんですか?」と質問したいほどだ。
前作と同様に良いところもあるけど最後で台無しに
もちろん良いところもある。水樹奈々が演じるゲストキャラクターの恐竜「ナナ」は見た目も動きもかわいらしく、犬のシロと相性抜群の活躍を見せる。最新の研究結果を取り入れた羽毛が生えている恐竜の作画や、渋谷の街を筆頭とした背景描写も丁寧で、タイトルにある「日記」を生かした演出もうまい。
序盤の物語の流れも悪くはなく、ちゃんと笑えるギャグもあり、さまざまな種類の恐竜が登場する見せ場も用意されている。夏休みのファミリー向け映画の“型”は保っているので、楽しめたという声があることにはうなずける。
だが、中盤からは到底納得できない雑なつくりが目にあまる。さらには重い問題提起に対して不誠実極まりな結末は、「良いところもあったのに、最後で無理やり感動させようとして台無し」だった前作「しん次元! クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 ~とべとべ手巻き寿司~」と共通していた。
ここからはネタバレ全開で本作の根深い問題点に触れていく。本作を文句なしに楽しんだ方は不快に感じられる可能性があるため、ご了承のうえでお読みになってほしい。
※以下、「恐竜日記」の結末を含むネタバレに触れています。「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」と「嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」の重大なネタバレにも触れているのでご注意ください。
むしろファンをがっかりさせる“目配せ”
まず「クレヨンしんちゃん」映画のファンとして怒り心頭だったのは「過去の名作への目配せは一丁前なのに、その本質をまったく理解せず、ただ“出しただけ”に見える」ことだ。
例えば、凶暴化した恐竜のナナを研究者のビリーが「人間と恐竜は共存できないんだ!」と言いながら撃ち殺そうとすることに対し、しんのすけは「ズルいぞ!」と言う。これは「オトナ帝国」の終盤のセリフの明らかな踏襲だが、この場面で「ズルい」という言葉選びは不自然だ。そこは「ヒドいぞ!」ではないのか?
「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」のラストでは、悪役の2人は自ら死を選ぼうとしていた一方で、しんのすけはそれを実は「楽しいバンジージャンプ」だと勘違いして「ズルいぞ!」と言っていた。つまりは「大人の自己完結している勝手な選択」なんて知るよしもない子どもの「純粋な気持ち」があって、さらには平和の象徴のハトの飛翔も加わり、2人は救われたのだ。
対して「恐竜日記」ではまだ5歳のしんのすけに、「凶暴化してしまう大切な友達を殺そうとする大人」の残酷な選択を認識させた上で、(おそらくはオマージュ台詞を優先したいがあまり)ズレたことを言わせてしまっているのだ。これでは、「過去の名作映画の名台詞をただ言わせただけ」だ。「オトナ帝国」の何を見ていたのだろうか?
この他も「目配せ」が表面的すぎて、「クレヨンしんちゃん」のファンであればあるほどにむしろがっかりしてしまう場面が続く。
しんのすけと風間くんが「お尻歩き」をするのは「嵐を呼ぶジャングル」からだろうが、そちらに比べてお尻歩きをする必然性がなさすぎる。人気キャラクターでありながらも劇場版での活躍が少なかった「酢乙女あい」の登場そのものはうれしいのだが、はじめにチケットをあげるお金持ちとしての役回りだけで、その後の活躍はない。
「売間久里代」や「四郎」といったキャラもとりあえず出しただけに思えて、他の準レギュラーキャラが終盤で戦いに参加する様になんの感慨もない。「クレヨンしんちゃん」映画のファンだからこそ残念に感じるだけでなく、純粋に展開が強引で、強い違和感を覚える内容となっている。
なお、劇場パンフレットで、佐々木忍監督は「しんちゃんワールド特有の、ほのぼのした中にたまにあるピリリとした隠し味が好きだったんです」、脚本家のモラルは「いろんな方の挑戦的な思いっていうモノがテレビでも映画でも観るたびに伝わってくるので、そういうところが好きですね」と語っている。なるほど、確かに「ピリリとした隠し味」「挑戦的な要素」が過去作で効果的に用いられることはあったが、残念ながら本作のそれは終始ピントがずれてしまっていた。
ナナは絶対に死なせてはならなかった
怒りと悲しみが頂点に達したのは、恐竜のナナが最後に死ぬ展開、さらにしんのすけたちかすかべ防衛隊のみんなが泣く姿を正面から映すことだ。
前述した通り、この直前には「人間と恐竜は共存できない」という問題提起がされ、恐竜のナナを生かすのか殺すのかという重い選択に迫られる場面がある。さらには「子どもの未来は明るいのか」という「しん次元」にも通ずる問いかけと、「子どもは親の見ていないところで勝手に成長する」とのメッセージも掲げられている。
にもかかわらず、ナナを死なせてしまうのだ。序盤からしんのすけたちかすかべ防衛隊のみんなといっしょに遊んでいた、シロともかけがえのない時間を過ごしていた、「子どもの恐竜」を。その未来の可能性を完全に奪うというのは、先の問題提起に対して最悪の結論にしか思えなかった。
加えて、「クレヨンしんちゃん」としては「禁じ手」ともいえる「親しい人の死を目の当たりにするラスト」自体も、「嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」の安易な模倣にも見えてしまった。
もちろん、好意的にみれば「つかの間でも(タイトルにあるように日記に記した)大切な思い出ができた上での、身近な者の死を乗り越える物語」とも捉えられるだろう。劇場パンフレットでは、テレビアニメの初代主題歌「オラはにんきもの」の歌詞にある「将来楽しみだ」を裏メッセージとして伝えたいという意図も記されている。
佐々木監督は「生きていると日々いろいろ大変なこともあるだろうけど、楽しいことも将来にはあるぞと思ってもらえれば嬉しいですね」、脚本のモラルも「新しい何かと出会うきっかけがあったら、知らないからやめておこうではなくて、知らないから関わってみようと、一歩踏み出してみてほしいです」などとも語っている。
しかし、その言葉が作品とうまく接続しているようにはやはり思えない。「しんのすけたちと出会わなければナナは生きていたかもしれない」とさえ思えてしまう結末は、「将来楽しみだ」というメッセージとはひどくミスマッチだ。
「戦国大合戦」のラストでの死は、それだけで泣かせるようなものではなく、「戦争の時代の残酷さ」と「逃れられない運命」を示しつつも、その後に今と昔の時代をつなぐ光景を示すというアンサーがあった。他の「クレヨンしんちゃん」映画や原作マンガでも親しいキャラクターの死を描くことはあったが、それぞれちゃんと意義を感じさせるものだった。
対して、「恐竜日記」ではそうした必然性が見つけにくく、単に「悲しさで泣かせる」というギミックとしての側面が前面に来てしまっている。これでは、夏休みのいい思い出にとこの映画を見に来た子ども(と大人)がふびんにさえ思える。
恐竜をバカにしているようなつまらないギャグ
加えて、恐竜というせっかくの題材もまったく生かしきれていない。「実はロボット」という設定もあってか、5歳の幼稚園児を含むしんのすけたちがあっさりと倒してしまうし、ネネちゃんに至っては「チョロい」と口にする始末で、恐竜と対峙する緊張感やハラハラは積極的に捨てている。恐竜それぞれの個性もほとんど無視しており、かろうじてパキケファロサウルスの頭からモニターの光が出てくるくらいである。
さらには、「アンキロサウルス」が登場したかとおもいきや、体が小さくて「3キロサウルス」と呼ばれたりする。こうしたダジャレを3回も繰り出し、「モーニング娘。」の楽曲で恐竜たちと踊るくだりは大人向けのギャグだとしても浮いてしまっている。もはや恐竜への愛情がないどころか、バカにしているようにすら思えたのだ。
加えて、「クレヨンしんちゃん」映画の大きな魅力であるはずの「アクション」が物足りないものショックだった。キャラクターが1人ずつ「段取り」的にあっさりと恐竜を倒していくのは「作業感」があってテンポが悪く、アニメーションとしても躍動感がなく面白みに欠ける。かろうじてひねりが感じられたのは、みさえの「お尻のデカさ」をロボットらしく「分析」した上で倒す様くらいだろう。
また、この街で恐竜が歩き回る事態に自衛隊や警察はどうしているのかと疑問に思っていると、そちらはまさかの「さすまた」を手に攻撃しようとしてすぐに逃げるだけ、という光景には目を疑った。もはや最低限のシチュエーションの説得力すら放棄している。作り手は「爆発!温泉わくわく大決戦」における戦車の出撃シーンを100回見て反省してほしい。
ヤケクソを超えて意味不明な悪役の行動
悪役の行動もひどい。いや、そもそもの問題提起は悪くはなかったのだ。「次々に来る要望に応えようとして大切なことを見失う」というバブル・オドロキーの過ちは、誰にでも起こり得るものだ。また、インフルエンサーに過度な信頼や期待を抱いたり、不祥事が発覚した際に世間が手のひらを返す様子は、SNS時代において非常に共感できるテーマでもある。
ただ、その後のバブルの行動は支離滅裂だ。「恐竜がロボットであるとバレる前に本物の恐竜のナナを手に入れようとする」のであればまだ筋は通っていたのが、序盤で全てが世間にバレた上で世界征服的な行動に打って出るため、ヤケクソにしか思えない。おまけに劇中でもそういった指摘がされるので、初めこそあった悪役としての魅力も完全に消滅してしまった。最後に記者から質問されてバブルが何も答えなかったのは、作り手も彼に興味がなくなったからではないかとすら思えてくる。
もはや、「恐竜は本物ではなく実はロボットでした」という事実が、この「恐竜日記」という作品の「『クレヨンしんちゃん』映画のガワだけを取り繕ったニセモノ」「これまでの名作の感動ポイントの上澄みだけをすくっただけな出来」を、メタフィクション的に示しているようですらある。
そもそも、「本物の恐竜と見紛うほどのロボットを作った」こともすごいことなのではないか。バブルはそのことを堂々と主張すればいいはずだし、SNSでもそうした声が出ていいはずだ。これもまた、この「クレヨンしんちゃん」映画のニセモノのような作品を作った作り手の自信のなさを示している……というのはもちろん考えすぎだろうが、そう思わないとやってられないほど、悪役の扱いが浅はかで意味不明だった。
なぜここまで空虚で不快な作品になったのか
なぜこのような作品が生まれてしまうのか。本作では「クレヨンしんちゃん」映画および子ども向け映画に求められる最低限のモラルが守れておらず、メインスタッフやプロデューサーの責任は重い。
最後に、近年の「クレヨンしんちゃん」映画の中で屈指の傑作とされる「花の天カス学園」の高橋渉監督の言葉を引用しよう。(※高橋渉の高は、はしごだかが正式表記)
「僕らももちろん「オトナ帝国の逆襲」は名作だと思いますし、原恵一さんの思想と作家性が爆発して生まれたような作品ですから、それを追いかけても芯のないものになると思っていました」
今回はどうだろうか。まさに過去の名作の「泣かせ」っぽいところを追いかけて……いや「とりあえず出した」な目配せに始終するばかりか、作品内の問題提起に対しても不誠実な、友達かつ子どものナナを死なせるという最悪の結末を用意する、芯がないどころか空虚で不快な作品となってしまったのだ。
なまじ興行成績がいいからこその恐怖
ちなみに、前作「しん次元」は「クレヨンしんちゃん」映画史上No.1の興行収入を達成し、今回の「恐竜日記」も公開から10日間で興行収入が13億円を突破する好成績となっている。前作はシリーズ初の3DCG作品だったこと、今作は恐竜というモチーフがキャッチーだったことに加えて夏休み興行が定番となり、今までのようにゴールデンウィーク公開の「名探偵コナン」とバッティングしなくなったったことなどが大きな要因だろう。
なまじ興行成績がいいため、作り手が前作や今回のような路線を良しとし、「最後に台無し」な作劇を今後も繰り返してしまいかねないことに恐怖を覚える。2年連続で「クレヨンしんちゃん」映画でこんな気持ちになってしまうことがただただ、悲しい。こういうことを続けてはいけないのだ。作り手には真面目に批判を受け止めて変わってほしい。そう願うばかりだ。
(ヒナタカ)