「結婚」と「独身」どちらが現代社会においてリスクなのか? 歴史をさかのぼって考える日本の少子化・未婚化の問題点とは

結婚は特権階級の営み、日本の歴史は「ひとりみ」(独身)の思想に貫かれている——。古代から幕末まで、多様なひとりみたちの「生」と「性」を追った1冊『ひとりみの日本史』(左右社)。同書より一部・抜粋再構成して、「ひとりみ」リスクに警鐘を鳴らした歴史上の名僧の話をもとに「単身の高齢女性 4割貧困」といわれる日本の現状を考える。

性に肯定的だった日本仏教

日本の仏教界がいかに性に寛容であったかは、拙著『本当はエロかった昔の日本』や『ジェンダーレスの日本史ーー古典で知る驚きの性』で紹介したので、ここでは繰り返しません。

日本最古の仏教説話集『日本霊異記』では、熱心な観音の信者が、

〝南无、銅銭万貫と白米万石と好(うるは)しき女(をみな)とを多(さは)に徳施したまへ〞

と祈って、それが実現したとされるほどです(上巻第31)。日本の仏教は早い時期から、大金と食べものと美女たくさんを祈っていい教え、そうした世俗的欲望が叶えられる教えとされていたわけです。

問題はなぜそんなにも日本仏教は、性をはじめとする欲望に寛容であったかですが……。一つには、国や神々が夫婦神のセックスによって生まれたと、お上の作製した歴史書(『古事記』『日本書紀』)に堂々と記されるような、性を大切なものとして重要視する国柄というものがあるでしょう。

これを以てして、昔の日本人の性は「おおらかだった」と言う人がいますが、私はそれは違うと考えており、色んなところで指摘してきました。

神々のセックスで国土や神が生まれたというのは、日本以外でも太古の神話にはありがちですが、日本の場合、それが国を挙げて作成された「正史」である『日本書紀』などにも記されているところがミソです。

子作り以外の性を否定した昔のキリスト教と違って、日本では、何かと何かをつなげ、時に増殖させる「性」的な行為を重要視している、そうした原始的とも言える考え方が脈々と続いているからであろうと思うのです。

このように、性を大切なものとしてとらえていた日本人は、仏教の「宿世(すくせ)」の思想……現世の事柄はすべて前世の善悪業の報いとされる考え方を、「だから夫婦のこと、性愛のことも、自分の力ではどうしようもない」と解釈していました。

『とはずがたり』の作者の父親の遺言がその例で、平安中期の『源氏物語』にも、源氏と継母・藤壺の密通を「宿世」ゆえ仕方ないと容認する思想が見られます。性愛の欲望に突き動かされたとしても、それは前世からの宿縁で、自分の力ではどうにもならないと、その欲望を容認してしまうわけです。

こうした態度は、女性の地位が低い近世・近代では、「男の欲望は止まらないのだから」という歪んだ理屈となって、だから、女の側が、男を挑発しないよう防衛しないとならない、女が意志に反して男に襲われたとしても、女にも非があったかのように責任を求める、理不尽な姿勢とつながりもしたのですが……。

古代から中世にかけての社会では、女の地位が高かったため、性のゆるさは、女にばかり負担を強いるものとはならず、婚外セックスに関しても、互いの意志を尊重して良しとする傾向が見られます。

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性の締めつけが厳しいのは、決まって父権の強い社会

父権の強い父系社会では、父から息子へ財産や地位が継承されます。この時、確実に我が子に財産を伝えるには、妻が自分以外の男とセックスしていたら困るわけです。

一方、古代の日本は、母系と父系の両方の特徴をあわせもつ双系社会であったといわれていますが、平安文学や日記を見ても、男が女の実家に通い、新婚家庭の経済は妻方で担っていた「婿取り婚」が基本で、財産相続は男女を問わぬ諸子平等であり、とくに家土地は女子が相続する例が多数見られます。

さらに時代を遡ると、生まれた子の父が誰だか分からず、神たちを集めて、子どもに酒を捧げさせて父を決める神話もあります(『播磨国風土記』託賀の郡)。

母権の強い社会では、「どの母の子か」がポイントですから、父が誰であるかはそこまで重要ではなかったりします。結果、性の締めつけがゆるくなるという仕組みです。

日本の仏教が、一貫して、性に対してある種の「ゆるさ」を持っていることの背景には、性を重要視し、良きものとする日本人の土壌があったのではないでしょうか。