「音霊OTODAMA SEA STUDIO」での青春時代
–––キマグレンが解散したあとの9年間、お二人は連絡を取り合っていたのでしょうか?
KUREI 一緒にご飯食べに行くなど、ちょいちょい連絡したり、会ったりしていましたよ。古くからの友人なので、そこはキマグレン解散後も変わらなかったです。
ISEKI 別に二人の関係が破綻して解散したわけではないですからね。
–––お二人は、もともと幼馴染だったんですよね?
ISEKI そうです。小学校のときに地元の遠泳大会で出会っていますが、お互いの存在をしっかり意識したのは15歳のときですね。
KUREI 住んでいる地域も一緒で、もともと共通の知り合いがたくさんいるような関係性でした。
–––その後、2005年にキマグレンが結成されるわけですが、きっかけはKUREIさんがISEKIさんに「海の家を一緒にやらないか?」と声をかけたことだと聞いています。
KUREI そうです。海の家ライブハウス「音霊OTODAMA SEA STUDIO」を作るために誘って、キマグレンはその後に結成した形ですね。ISEKIには「儲かるぞ」と、甘い誘いを投げたわけです。
ISEKI 全然儲からなかったけどね(笑)。
–––なぜ、そこから音楽活動を一緒に始めることになったのでしょうか?
ISEKI 「音霊OTODAMA SEA STUDIO」では毎日のようにアーティストが出演してくれていたんですが、毎日ブッキングできるわけではなく、どうしても空き日が出てくることは当然ありまして。でも、僕らとしてはスケジュールを埋めて、売上を立てなきゃいけない。そこで、「友だちをたくさん呼んで、俺らが演奏しよう」となったんです。
KUREI 空き日が出るたびに自分たちが出てるから、お客さんが2人しかいないときもあったよね。
ISEKI でも、お客さんが少なくても、ステージに立つのは楽しかったんですよね。それぞれ当時組んでいたバンドでも出演したりして。
KUREI 僕は「The Chicken」というパンクバンドで出演していましたし、ISEKIは「クックドゥードゥルドゥー井関」とか「井関靖将とようこそ楽団」っていうのもやっていたよね。今思うと、総じてネーミングセンスがひどい(笑)!
ISEKI クックドゥードゥルドゥー井関では、ニワトリの被り物を着けて、レゲエのビートに乗せながら下ネタを言うだけという……(笑)。とにかく人を呼ばなきゃいけないから必死でしたけど、同時にすごく楽しい時期でもありましたね。
取材・文/毛内達大 撮影/下城英悟