ロッテ、西武ライオンズ、福岡ダイエーで球団代表を歴任し、球界の表もウラも知り尽くした坂井保之氏。「プロ野球選手は球団オーナーの私物ではない」との強い思いから、2004年の球界再編騒動時には、渡邉恒雄巨人軍オーナーが口にした「たかが選手」という発言を厳しく糾弾した坂井氏。あれから20年、今、坂井氏はなにを思うのか。
破談となったペプシコーラの「ライオンズ買収」
1969年から1971年にかけて、プロ野球界で相次いで発覚した「黒い霧事件」。球界関係者が、暴力団からの金銭の授受を伴う八百長に関与したとされる一連の事件は、西鉄ライオンズを直撃し、これに与したとされる主力選手が大量に処分されていた。
一気に弱体化したこのチームも身売りされることが決まると、「首相の元秘書ならなんとかしてくれるだろう」という乱暴な期待の下、またもロッテオリオンズのオーナー・中村長芳が事態の収拾を託された。
ライオンズの譲渡先としては当初、ペプシコーラが好意的な反応を示していたが、破談に終わってしまう。
ついにパ・リーグは崩壊し1リーグ制に移行されるのかと思われたが、中村はなんと私財を投げうって個人で球団運営会社(福岡野球株式会社)を作り、個人所有チームとして再出発させた。これは事態収拾を丸投げにしてきた関西の名門チームへの意地とも言われた。
1972年10月に西鉄からの買収が発表され、ここで若干38歳の坂井保之が社長として着任させられた。経費削減で事務所は坂井の自宅住所に登記された。親会社は無く、ゴルフ場開発会社の太平洋クラブを年間2億円でネーミングライツのスポンサーにつけての綱渡り経営であった。自己資本の無い中での金欠状態は推して知るべしである。
太平洋クラブライオンズからドラフト3位で指名された後の阪神監督、真弓明信は入団会見がホテルの金屏風前ではなく、雑居ビルの喫茶店で行われたことを記憶している。練習ボールを他球団から黙って拾い受けたり、選手の夜食代や移動費を削っての球団運営だった。
その頼みの綱の太平洋も農地法の改正で農地のゴルフ場への転用が容易にできなくなると、チームにはスポンサー料が入らなくなり、以降、坂井は球団存続のために金策に明け暮れることとなる。
1976年にはライターの製造会社であるクラウンガスライターと渡りをつけ、2年間の冠スポンサー契約を結んだ。1978年のドラフトで法政大学の江川卓の指名権を獲得するも入団は拒否され、国土計画(=西武)への身売りをするに至った。
「君たちは西武のフランチャイズである埼玉に言ってもらう」と坂井がロッカールームで選手たちに告げた際には、まだ海のものとも山のものとも分からぬ新球団にいきなり行かされることを不安に感じた伊原春樹や竹之内雅史ら、生え抜き選手たちから、厳しい言葉を浴びせられている。
結果的には、日本一の貧乏球団から当時、日本一の金持ち球団への転身となったが、換言すれば、西鉄が球団を手放して以降、6年間必死に耐え忍んでバトンを安定企業に渡すことに成功したと言えよう。
剛腕オーナー、暴力団に蹂躙された試合、新球団設立、責任企業を持たない中での営業戦略…。坂井はプロ野球界の格差を知り尽くし、選手たちと苦楽を共にした叩き上げであった。
そしてこの頃には「プロ野球は公共財」という確固たる信念が確立されていた。それであればこそ、ビジネスの原資とも言える現場で白球を追う者の社会的な地位の向上に無関心ではいられなかった。
「プロ野球は公共的な財産だとの考え方。それは私にとってのまさに発見だった。自分が艱難辛苦球団を経営して行く中で発見したんだよ。でも中畑の感受性はそんな僕よりも瑞々しかった。二軍の選手の家族も食べさせていけるようにと、言っていることは正しい。
方法論は少し危うかったけれど、中畑が言っていたことは絶対的に正しかった。博打で言うと当たりだね。一方で僕の場合、(中畑たち)選手たちに比べれば、一応、年齢とキャリアには一日の長があるからね。(組合を作る上で)今、君たちは何をすべきか。どう動くのが良いのか。それをまた話した。
経験上、組合設立に向けて重要なのはスピードと情報管理だと思っていたから、これは長引かせずにすぐに決着をつけないと、取り返しがつかんぞと。(経営者も選手もプロ野球界において)共存していくべき同じ仲間だからね。つらいけど、頑張れと伝えたかな」
共存すべき仲間という思考。そこにたどり着いたのは、ロッテ、太平洋、西武、ダイエーとジェットコースターのようにそれぞれ背景も経営母体も異なる球団を渡り歩いた結果である。中で最も印象深かったのは、西武時代だという。くしくも時代的に選手会労組と対峙したときであった。
「チームとして物凄い集団が出来ると思ったのが、西武だった。いろんな選手と向き合って来たけれど、西武の荒くれどもは知識欲も闘争心もあった。根本、広岡、森とリーダーが将来を見据えていていたので、僕は監督とは一定の距離を置きつつもそれを精一杯サポートした」
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球界再編騒動で暗躍した“ナベツネの傀儡”
選手会を見守りつつ、自らのチームの繁栄にも注力する。東尾、太田、立花田淵、森、松沼兄弟、秋山、工藤、郭、伊東、清原、渡辺久、辻……。
当然ながら両者は決して対峙するものではない。筆者は坂井のバックボーンを知りたくなった。野球と言う文化を消費物にせずに公的な存在として位置付けていくに至った精神的な土壌はどういうものであったのか。
「僕の親は九大の医学部出身でね。小児科の医師だったんだよ。かつて小児科医は子どもをなだめるのが仕事みたいに思われて蔑まれていた。医局でも外科や内科が花形とされてね。でも父親は子どもを治療することに誇りを持っていた。
僕も医者を継ぐのかと思っていたんだけど、それは自由にさせてくれた。お前は俺の魂を継いでくれたらそれでいい、と。父は医者でありながら、医者ではなく、医学的な人間を育てないといけないと言っていた。お前は、社会における医師を目指せ、とね」
2004年にオリックスが近鉄と不明瞭な球団合併な話を秘密裏に進めていることが露見し、選手会が立ち上がった。いわゆる球界再編問題である。この理不尽な動きに対し、中畑から数えて5代目となる古田敦也プロ野球選手会会長は、組合員の賛成多数でスト権を確立していた。
ところが、渡邉恒雄の傀儡と言われていた根來泰周コミッショナー(当時)が、この選手会の動きを封じるために暗躍していた。
根來は「私には裁く権限が無い」と裁定を避けていたその裏で各球団のオーナーに向けて、マル秘文書を発信していたのだ。坂井はそれを入手していた。タイトルは「統合、1リーグ制についての意見」と記されており、以下のような経営側に露骨に加担する文言が並んでいた。
「選手会なるものが、ストライキを企てているが、その場合は球団はストによって発生した損失のすべてを、選手会に求めることができる」
「評論・言説をなす者は、『選手・フアンの意見の聴取』と言って合併反対を言うが、思い違いだ。法治国家として許されることではなかろう」