<プロ野球史に残る没収試合>暴力団関係者が西宮球場の窓ガラスをたたき割り、ロッテ首脳陣のハイヤーを追いかけ回し…球界の表とウラを知り尽くした男が振り返る「1971年 阪急―ロッテ戦」

1969年から1971年にかけて、プロ野球界で相次いで発覚した「黒い霧事件」。球界関係者が暴力団からの金銭の授受を伴う八百長に関与したとされる一連の事件では、複数の主力選手が処分される事態となった。当時、ロッテで球団代表を歴任していた坂井保之氏には、今でも忘れられない試合がある。

「ハチ、坂井さんに連絡を取りたいんだ」

東京・調布市仙川の焼肉店「ホルモン家族」。煙の向こうに中畑清がいる。新鮮な部位をそれぞれ楽しみながら、プロ野球選手会労組発足時の話に聞き入る。

このユニオンの初代会長はひとしきり語り終えると、「やっぱり、これをテーマにするなら、機構側にいた人にも聞いた方がいいな。何かと俺に親身になってくれたじっちゃん(長谷川実雄元読売巨人軍代表)はもう亡くなったけど、もうひとり世話になった坂井さんはご健在なんだから、あの人にも当たるといい」と言った。

選手会労組発足時にプロ野球機構の福祉委員会にいた坂井保之のことである。当時の坂井は西武ライオンズの球団代表という立場にありながら、組合設立に動くメンバーを激励し、水面下で助言さえ送っていたという。また、奔走する中畑に「これが実現したら、凄いことになるぞ」とも告げていた。

中畑は箸を置くと、スマホを取り出して、駒沢大学の後輩の登録番号を押した。受話器の向こうは、西武の主力選手時代に坂井と関わりの深かった人物だった。

「ハチ、坂井さんに連絡を取りたいんだ」

駒大時代、寮の部屋子だった石毛宏典から携帯番号を聞き出すと、自らかけた。残念ながら、番号はすでに使用されていなかったが、その振る舞いから、すでに40年近く経っているにも関わらず、かつての巨人の四番と西武の代表の往時における信頼の強さが感じられた。
 
あらたに坂井の自宅の電話番号を入手してダイヤルすると、本人が電話口に出た。取材をしたい意向を告げると、「では家に来られますか」と快諾の返事が即座に返ってきた。 
 
住所を頼りに鎌倉の自宅を訪ねた。出迎えてくれた坂井は今年で91歳。それでも背筋は伸び、口調も快活である。

あいさつもそこそこに趣旨を告げると、開口一番、ポジティブな記憶が飛び出して来た。 

「私が西武にいて、最初にその話(プロ野球労組設立の動きを)を聞いたときは、中畑君に向かって、それはいいことをやろうとしてるね、と伝えたんですよ。選手たちの地位は低すぎた。革命を起こせと」 

坂井は球団経営に際し、常々、選手本位の姿勢を貫いていた。ちょうど労組が設立された1985年に中日から西武に移籍していた田尾安志から、筆者はこんなエピソードを聞かされていた。

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プロ野球選手は球団オーナーのアクセサリーではない

中日時代の田尾は選手会長として球団に環境改善の要求を出し続けていたが、それを当時の鈴木恕夫代表に疎まれて、放出されてしまった。

一方的にトレードの通達をされたのが、キャンプイン直前ということで練習不足は否めず、田尾の西武初年度の成績は、前年度を大幅に下回るものであった。

しかし、契約更改の席上で坂井は「夏休みにうちが大差で負けた試合があったが、君が打ったホームランで1点返すことができた。あれは球場に来てくれた子どもたちにとって忘れらないホームランになったはずだ」と田尾に告げたという。

まず選手のプレーを尊重した上で、「ただ数字は落ちているので年俸を下げていいか?」と問うた。田尾に異論は無く、その振る舞いにすっかり感じ入ったという。坂井はそんな球団経営者だった。 

「そうだね。よく試合は観に行っていましたからね。今、記憶がよみがえって来たけれど、選手会労組結成の動きは傍から見ても手ごたえがあった。僕はね、この流れを見て見ぬふりをするわけにはいけないと思った。野球界における自分の役割はここにあるのだとさえ考えた。ここから先、話すことは物語として聞いてくれるといいんだが…」 

経営者側にいながら、選手に向けての助言をなぜ発していたのか。坂井の半生をなぞることで、理解できた。坂井は戦後の日本のプロ野球球団の盛衰を身をもって体験してきたのである。

そのはじまりは大映(大日本映画製作)の永田雅一会長が自らオーナーを務める東京オリオンズをロッテに譲渡したことがきっかけだった。政界のフィクサーとしても活動をしていた永田は、新体制となったロッテオリオンズに盟友であった岸信介元総理の筆頭秘書の中村長芳を代理オーナーとして送り込んだ。

山口県出身の父親との関係で中村(旧制山口中学卒)に師事していた坂井もそれに伴ってロッテのフロントに入ったのである。坂井のプロ球団との関りがここからスタートする。 

坂井はこの頃のプロ野球選手が球団オーナーのアクセサリーのように扱われていたことを著書にこう記している。

「プロスポーツ組織としてはまだ未成熟な存在。永田オーナーも、大映の女優陣を酒の席に侍らせてご満悦だったのと同じ程度に、プロ野球選手を引き連れて飲み歩く豪勢さをむしろ愛していた」(「プロ野球血風録」より)

チームを愛し、オリオンズのために自費で東京スタジアムを建設して、名声を得た永田オーナーでさえ、球団経営にかける情熱は公的な意識からではなくタニマチ気質から起因していた。

坂井が選手はオーナーたちの私物ではいけないという思いを強くし、2004年に渡邉恒雄巨人軍オーナーが口にした「たかが選手」という発言を厳しく糾弾するに至るようになったのは、これらの体験に起因していると思われる。