8月29日は「ベルばらの日」です。革命前後のフランスを舞台に描かれた『ベルサイユのばら』では、架空の人物と実存の人物が作中で交錯します。実は、マリー・アントワネット以外にも「マンガよりも悲劇的な最期」を迎えた登場人物がいたのです。
劇場アニメ『ベルサイユのばら』キービジュアル? (C)池田理代子プロダクション/ベルサイユのばら製作委員会
【画像】原作では叶わなかった… こちらはオスカルとアンドレのウェディング姿です
マンガ以上に悲惨な最期を迎えていた
1974年8月29日に宝塚歌劇で『ベルサイユのばら』が初演されたことから、8月29日は「ベルばらの日」とされています。2025年新春に公開される完全新作の劇場アニメが待ち遠しいです。
革命前後のフランスを舞台に描かれた『ベルサイユのばら』は、史実をもとにしたフィクションです。「オスカル」や「アンドレ」などの架空の人物と「マリー・アントワネット」と「フェルゼン」などの実存の人物がドラマを織りなします。
実は、断頭台に送られた「悲劇の王妃」であるマリー・アントワネット以外にも「マンガよりも悲劇的な最期」を迎えた登場人物たちがいたことを知っていますか?
マリー・アントワネットの最愛の人「ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン」
マリー・アントワネットの愛人であったスウェーデン貴族の「ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン」の最期は、あまりに悲惨なものでした。
フランス革命が起こってからも、フェルゼンは愛する人とその家族を救おうと逃亡計画を立てますが、計画はことごとく失敗します。そして1793年10月、ついにマリー・アントワネットは処刑されてしまいました。
絶望したフェルゼンは、それまでとは別人のように、冷酷で愛想のない、暗い人間になったといいます。そして、愛する人を死に追いやった民衆を憎むようになり、弾圧的なふるまいが多かったせいで、民衆から恨まれていました。
そして、事件は起きたのです。王太子の葬儀会場に馬車で現れた彼は群集から石を投げられますが、同行していた近衛連隊は彼を護衛することを拒否しました。どうにか建物に隠れるも群衆に捕まり、こん棒で殴られたり踏みつけられたりして殺害されます。遺体は裸のまま排水溝のなかに投げ捨てられていたとも言われており、悲劇的すぎる最期と言わざるを得ないでしょう。
※名前の読み方は原作マンガに準じています。
劇場アニメ『ベルサイユのばら』ティザービジュアル (C)池田理代子プロダクション/ベルサイユのばら製作委員会
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オスカルの父は実在の人物だった
マリー・アントワネットの寵臣「ポリニャック夫人」
ポリニャック夫人は、当時、最高の美女のひとりと言われた女性です。マリー・アントワネットも彼女の美貌に目を奪われて声をかけ、借金の肩代わりをしたり、経済的に面倒をみたりするようになりました。そして彼女の一族にまで、地位や財産を与えるようになったため、貴族たちの不平不満はポリニャック夫人だけでなく王妃にも向けられたのです。そのようなことが10年以上もの間、続きました。
ふたりの仲が再び親密になったのは、革命勃発後です。民衆は王妃の浪費に加担したポリニャック夫人を処刑しようとしましたが、それでも彼女はマリー・アントワネットの側にとどまろうとしました。王妃の説得でベルサイユを離れる際には、当面の生活費とともに「さようなら、たいせつなお友達」と書かれた手紙を受け取っています。彼女の存在がいかに王妃にとって大切なものであったかが分かるでしょう。
逃亡中、病におかされたポリニャック夫人でしたが、王妃たちの逃亡計画に協力したこともあり、最後までマリー・アントワネットのことを慕っていたと思われます。マリー・アントワネットが処刑された2か月後、彼女は44歳で亡くなりました。
オスカルの父「フランソワ・オーギュスタン・レニエ・ド・ジャルジェ」
「男装の麗人」である「オスカル」は架空の人物ですが、彼女の父親であるジャルジェ将軍は実存の人物です。原作マンガでは由緒ある名門貴族として描かれていますが、実際には将軍でもなければ大貴族でもありませんでした。一方、献身的な王党派であったことは史実どおりで、王や王妃からの信頼も厚かったようです。ちなみに彼は最初の妻を亡くした後、マリー・アントワネットの侍女のひとりと再婚しています。
処刑の直前まで、マリー・アントワネットの逃亡計画に奔走しましたが、計画はことごとく失敗に終わりました。その後、王政復古の際には中将の階級を与えられています。直腸がんで1822年、76歳で亡くなりました。
ジャーナリスト兼義賊「黒い騎士」の「ベルナール・シャトレ」
原作マンガでのベルナールは、正義感あふれるジャーナリストの顔と貴族から盗みを働く義賊「黒い騎士」のふたつの顔を持つ人物でした。
彼のモデルは、革命派のジャーナリストで、のちに政治家となったルシー・シンプリス・カミーユ・ブノワ・デムーランです。彼は1789年7月、パレ・ロワイヤルのカフェで、「諸君、武器を取れ!」と演説し、パリ市民の決起をうながしたことで有名になりました。
しかし、ロベスピエールらによる恐怖政治を批判したことで、反革命的な危険人物として逮捕され、処刑されてしまったのです。さらに、その8日後には、彼の妻までが、彼を助けるために刑務所での暴動を企てたとして処刑されました。親の反対を押し切って、やっと結婚したデムーラン夫婦は、革命に翻弄され、悲しい最期を迎えたのです。