東日本大震災で津波の被害を受けた、宮城県七ヶ浜町。この海沿いの町で、震災を境に、まったくの未経験から30歳で漁師に転身した男性がいます。「ハマ・ヨンジャ」のアカウント名でTikTokに2万人以上のフォロワーがいる、星佳久さんです。
津波で自宅が流され、住む場所も仕事も失った星さん。もともと建設関係の職に就いていましたが、震災後に廃業が相次いでいた漁業の世界に飛び込みました。2023年6月からは、自ら漁で獲ったタコを使って、キッチンカーで“漁師のたこ焼き”を販売。TikTokのファンが、星さんに一目会うために行列をつくっています。
星さんはなぜ未経験で漁師になり、TikTokで発信を始めるようになったのでしょうか。逆境に立ち向かう星さんの歩みを辿ります。
悲しさよりも、笑うしかなかった
——星さんは宮城県七ヶ浜町で生まれ育ったのですか。
生まれも育ちも七ヶ浜です。もともとは自宅が海沿いにあって、そこで母と祖母と3人で暮らしていました。幼少期はもっぱら海が遊び場で、時間があれば、漁師をしている友達のお父さんの漁船に乗せてもらい、一緒に沖まで行って釣りをしていましたね。七ヶ浜は漁師町なので、地元の漁師さんは皆顔見知りでした。
友達のお父さんが魚を水揚げする様子も、漁船の上でよく見ていました。網にはヒラメやワタリガニ、タコのほかに、もっと大きい魚や変わった魚も掛かっていて、「漁って楽しそうだな。漁師になれたらいいな」と思っていましたね。
https://www.tiktok.com/@yoshihisahoshi/video/7169860215700016385?is_from_webapp=1&sender_device=pc
——一方、震災前までは建設関係のお仕事をされていたのですよね。なぜ、最初から漁師にならなかったのですか?
中高生時代はやんちゃで遊びたい盛りで、漁師への夢より、友達関係のほうを重視するようになっていたんですよね。高校の時に友達の紹介で、建物の骨組みをつくる鉄骨工事のアルバイトを始めて、卒業後はそのまま正社員になり、鉄骨工としてずっとはたらいていました。
——2011年、星さんが29歳の時に東日本大震災に遭われたと伺いました。
3月11日は夜間工事担当で、仕事が19時前後に始まる予定でした。だから日中は祖母と自宅にいたんですよね。祖母とは別の部屋にいましたが、14時台に地震があり、揺れが大きくなったので祖母の部屋へ移動。祖母を庇いましたが、揺れに耐えるので精一杯でした。
64年前、チリ地震の影響で七ヶ浜で大津波を経験していた祖母は「この揺れはただ事ではない」と言い、その後二人で高台へ逃げました。
高台から高さ10m以上の津波が何波も押し寄せるのが見えて、自宅は、少しよそ見をしている間に一瞬で流されていました。悲しさや驚きはなく、笑うしかなかったですね。あまりの光景に、深刻な心境になれるほど頭の回転が追いつかなかったのかもしれません。
(広告の後にも続きます)
「失うものは何もない。前を向くだけ」
——その後、なぜ漁師を志したのでしょう?
ぼくの場合は幸いにも、身近に亡くした人はいません。仕事で外出していた母も無事でした。ただ住む家と仕事がなくなっただけなので、「命以外、失うものはもう何もない。ただ前を向くだけだ」という気持ちでしたね。
震災後、七ヶ浜では、高齢の方を中心に多くの漁師さんが廃業していました。震災前からすでに、温暖化の影響で以前獲れていた魚が獲れなくなったりしていたようですが、津波でさらに漁場(魚を捕獲するための水域)が変わって漁業がしにくくなった上、漁船や自宅を失った人も多いからです。
でもぼくは、幼少期からいつも身近にあった漁業が七ヶ浜からなくなってほしくないと思った。それで、震災の一年後、小さいころよく漁船に乗せてくれた友達のお父さんがまだ漁師を続けていたので、一緒に船に乗せてもらい、漁師になるための修行を始めました。
——どのくらいの期間、修行したのですか。
約6年間です。漁業と一口に言っても、漁業会社などが運航する大きな漁船に複数の従業員の漁師が乗る場合もあれば、個人事業主として一人で漁をする人もいます。ぼくは後者で、2018年に独立し、小さな船で一人で漁をするようになりました。
——一人での漁は、うまくいきましたか。
いえ、思い通りにはいきませんでしたね。たとえばぼくがやっているのは「刺し網」という漁法で、風向きや潮の流れを見て、魚たちが餌にするプランクトンが集まる位置を予測して網を投げ入れないと魚が獲れません。
「刺し網」とは、横長の四角い網を海底に投げ入れ、重石で海底に固定することで、海底付近にいる魚を引っ掛け捕獲する漁。星さんは海底20〜30mまで網を投げ入れることも多いという
一方で、風向きや潮の流れは1分ごとに変わります。独立してからは、一匹も捕獲できない日もあったし、仮に捕獲できても“売れる”魚がない日もありました。