鳥居清長画『女湯』、銭湯を詳細に描いた浮世絵として知られている / credit:Wikipedia
銭湯は日本を代表する文化として知られており、現在でも銭湯に通っている人は多いです。
そんな銭湯ですが、江戸の街でも盛んであり、江戸っ子たちも「湯屋」と呼ばれる銭湯に通っていました。
果たして江戸時代の銭湯はどのようなものだったのでしょうか? また現在の銭湯とはどう違っていたのでしょうか?
本記事では銭湯の歴史について振り返りつつ、現在の銭湯との相違点について取り上げていきます。
なおこの研究は、茨城大学教養部紀要24号p. 295-314に詳細が書かれています。
目次
最初は蒸し風呂だった江戸時代の銭湯武士も商人もみんなで銭湯へ!ソープランド同然の銭湯もあった江戸時代
最初は蒸し風呂だった江戸時代の銭湯
江戸時代の銭湯、蒸気を逃がさないために入り口は狭かった / credit:Wikipedia
銭湯の起源は意外に古く、鎌倉時代には入浴施設を持っている寺院が利用者からお金を取っており、これが銭湯の始まりであると伝えられています。
当時風呂といったら蒸し風呂が主流であり、現在のようにお湯につかるタイプの風呂はあまり見られませんでした。
当時は蒸し風呂で体から垢や汗を出し、蒸し風呂から出た後に体をお湯や水で流すという形で衛生面を保っていたのです。
このような入浴施設は室町時代にも多く見られましたが、京や大坂といった大都市が中心であり、家康が関東に転封された当時の江戸のような地方にはほとんど見られませんでした。
やがて家康は本拠地の江戸を発展させるために、上水道の設置や城の整備、埋め立て工事などといった土木事業を行っていきます。
それにより江戸には日本全国から労働力が集まり、江戸の街には彼らが重労働の後に汗を流す入浴施設の需要が高まることが予想されたのです。
1591年、この需要を嗅ぎつけた伊勢与一により、江戸の町で初めての銭湯が誕生しました。
この銭湯も当時の例に漏れず蒸し風呂であったものの、燃料や水を節約するために、蒸気を逃さないように戸棚によって風呂室を密閉した戸棚風呂というスタイルで経営されました。
また戸棚風呂には浴室の中に小さい湯船が置かれており、入浴者は膝より下を湯船の中に浸していたのです。
時代が下るにつれて浴室内に置かれている湯船は大きくなり、徐々に現在と同じような湯に浸かる入浴スタイルへと変わっていきました。
それでも蒸気を逃がさないために閉鎖的になっている浴室の構造は変わらず、江戸時代を通して浴室の中は暗かったとされます。
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武士も商人もみんなで銭湯へ!
鳥居清長画『女湯』、銭湯を詳細に描いた浮世絵として知られている / credit:Wikipedia
そんな銭湯ですが、どのような人が利用していたのでしょうか?
長屋住まいの町人が銭湯に通っているシーンは時代劇などでよく見られますが、町人だけではなく下級武士も通っていたのです。
また江戸の街において火事を起こすことは非常に重い罪とされていたため、風呂を焚く際に自宅から不注意で火事を起こすことを恐れて銭湯を利用する者も多かったと言います。
そのため自宅に風呂を作れるほどの財力のある商人であっても銭湯に通う人は決して珍しくはありませんでした。
それ故、江戸の街の銭湯には様々な階層の人が集まっており、身分を超えた交流もしばしば行われていたのです。
江戸時代の銭湯の営業時間は各店舗によって異なっていたものの、概ね午前8時頃~午後8時頃です。
朝は芸者や料理屋勤務の女性といった夜に仕事をしていた人たちや旅籠に宿泊している旅人が多く利用しており、銭湯は朝から大盛況だったとのことです。
やがて午後2時頃になると寺子屋帰りの子供たちが多く訪れ、それが夕方を過ぎると仕事を終えたありとあらゆる町人たちが銭湯に押し寄せました。
なお銭湯の料金はそれほど高くなく、その上「ハガキ」と呼ばれている入浴定期券も発行されており、銭湯通いが金銭的な負担になる事はあまりなかったとされます。
また銭湯では行事ごとに様々な変わり湯が行われており、端午の節句(現在の5月5日)の菖蒲湯や冬至の柚子湯などがありました。
これらの変わり湯の際には、通常料金に加えて余分にご祝儀を支払うというのがマナーであり、利用者は番台の上に置かれた三方(神饌を載せるための台)におひねりを載せました。