狂気の皇帝カリグラ、彼を「残忍な変態」に変えてしまった事件とは? / Credit:Generated by OpenAI’s DALL·E,ナゾロジー編集部
古代ローマ帝国の第3代皇帝、カリグラ。
世間的には「カリギュラ」の呼び名で通っており、歴史の好きな方であれば、その”狂気の変態ぶり”をよくご存知でしょう。
実の妹と近親相姦したり、周囲の男性と性行為を繰り返したり、あるいは気まぐれで人を殺したり、海に戦争をしかけたりしました。
こうした奇行っぷりからカリグラは、古代ローマ史において暴君ネロと並ぶ悪名高い皇帝の一人に数えられます。
しかし意外にも彼は幼少期から周囲にとても可愛がられ、皇帝に即位したときはローマ市民から歓呼の声で迎えられました。
では、一体何がカリグラを”狂気の変態皇帝”に変えてしまったのでしょうか?
その激烈な人生に迫ります。
目次
兵士たちのマスコットだった幼年期、「カリグラ」の由来は?第3代ローマ皇帝に!群衆のヒーローとなる突然の豹変!「狂気の変態皇帝」へ
兵士たちのマスコットだった幼年期、「カリグラ」の由来は?
カリグラが生まれたのは今から2012年前。
西暦12年8月31日に、今日のイタリア中西部の都市アンツィオにて生を受けました。
父は古代ローマ帝国の有名な軍人ゲルマニクス、母は皇族のアグリッピナで、上に兄が2人、下に妹が3人います。
またカリグラというのは彼の愛称(のちに説明)であり、正式名称はガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクスという長いものでした。
カリグラは2〜3歳のころから、軍事作戦で遠征に行く父ゲルマニクスについていったことが知られています。
このとき、幼いカリグラは特別に仕立ててもらったミニチュアの軍装を身につけており、これを面白がった兵士たちの間でマスコット的な存在となったのです。
幼いカリグラは兵士たちのマスコット的存在に / Credit: canva/ナゾロジー編集部
その愛され方は一国の暴動をおさめるほどでした。
例えば、初代皇帝アウグストゥスのあとを第2代皇帝ティベリウスが継ぐことに対して、兵士が暴動を起こしたときのこと。
危害が及ばないようにカリグラを安全な場所に移すと聞いた兵士たちは「カリグラを自分たちから遠ざけないでくれ!」と嘆願し、自ら暴動を鎮めたといいます。
そのときに兵士たちは、幼いカリグラの履いていた「小さな軍靴」にちなんで、それを意味するラテン語の「カリグラ(Caligula)」とニックネームをつけたのです。
しかし幸福な時期はそう長続きしませんでした。
カリグラの両親の肖像 / Credit: ja.wikipedia, ja.wikipedia
カリグラが7歳のときに、父ゲルマニクスが死去。
その後、母アグリッピナの元で暮らすことになりますが、西暦29年に2代目皇帝ティベリウスが、アグリッピナとカリグラの長兄を反逆罪容疑で追放処分に。
また30年には次兄までも同じ容疑で収監されました。
これ以降、青年になったカリグラと3人の妹は軍によって軟禁され、ティベリウスの捕虜同然の状態に置かれてしまうのです。
(広告の後にも続きます)
第3代ローマ皇帝に!群衆のヒーローとなる
カリグラはティベリウスの元で6年間を過ごす中で、徐々に信頼を勝ち得ていきました。
33年には、ティベリウスからクァエストル(財務官)という高い地位も与えてもらっています。
そして西暦37年3月16日、ティベリウスが77歳で死去すると、その後釜としてカリグラとティベリウスの孫であるゲメッルスが共同統治をすることになりました。
ところがです。
3月28日にローマ入りをしたカリグラの人気は絶大なもので、事実上、彼だけがローマ皇帝として統治する状態になりました。
カリグラはローマ市民から「われらの子」「われらの星」と歓呼の声で迎えられたといいます。
カリグラの即位を祝う式典では、3カ月にわたり16万匹を超える動物が生贄に捧げられたという。
カリグラの肖像 / Credit: ja.wikipedia
しかし、まだ何の功績も残していないカリグラがなぜこれほど人気だったのでしょうか?
そのワケはとりもなおさず、ティベリウスの不人気の裏返しから来るものでした。
ティベリウスは晩年、表舞台から田舎に引っ込み、ローマ市民の前にはまったく姿を現さなくなりました。
その上、彼の厳しい緊縮財政から剣闘士(グラディエーター)の試合や競技会など、庶民の娯楽だった催しの予算を大幅に削減したことでローマ市民の不興(ふきょう)を買っていたのです。
とにかくティベリウスは不人気で、彼の訃報にローマ市民はやんやの大喝采を送ったといいます。
その孫であるゲメッルスも当然、ローマ市民から支持されることはありませんでした。
これに対して、カリグラはローマ市民から絶大な人気を誇っていた初代皇帝アウグストゥスのひ孫に当たります。
彼の血を引き継いでいることから、カリグラだけが市民から圧倒的な支持を受けるに至ったのです。
ローマ市民から絶大な人気を得る / Credit: canva/ナゾロジー編集部
こうして第3代ローマ皇帝となったカリグラは、政策の面でも寛大な姿勢を取りました。
兵士に賞与を支給したり、ティベリウスによって作成された反逆罪に関する書類を破棄して、国外に追放されていた者たちの帰国を促したり、重税で苦しい思いをしていた市民を保護したり、剣闘士による試合を復活させたりしました。
アレクサンドリアの哲学者フィロンは、その時期のカリグラについて「即位してから最初の7カ月間はまったくの幸福に満ち溢れたものだった」と書き残しています。
まさにカリグラはローマ市民にとってのヒーローでした。
ところがある事件をきっかけに、まるで別人のごとく豹変してしまうのです。