「アスリート・センタード・コーチング」という指導法が現在一般的になっている。選手の欠点を批判するのではなく、選手たち自身が主体的に考えることを促し、長所を伸ばしていくという考え方だ。この指導法は、日本の武道では「守破離」という考え方で古くから実践されてきたというが、その共通点とは一体何か。
書籍『限界突破の哲学』より一部を抜粋・再構成し、その精神性を学ぶ。
円環を成す「守破離」
武道や茶道における修行の段階を表す言葉に、「守破離(しゅはり)」という概念があります。現在ではスポーツやビジネスなど幅広いジャンルで、学びのプロセスを説明する時にも使われています。
辞書を引いてみると、
「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。
「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。
「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。
(『デジタル大辞泉』)
とあります。
この守破離は、現代剣道の修行にも当てはまり、
守は、先生に学ぶ。
破は、仲間と鍛錬。
離は、自分で工夫。
という円環を成しているように思われます(図2)。
具体的に説明していきましょう。
最初の段階は先生から、いろいろなことを学びます。基礎知識や基本技、応用技や専門知識、また「武道をどのように生活に活いかすか?」といった武道の価値観も学ぶことになります。先生が生徒に、自分の持っているいろいろな情報を提供するわけです。
これが「守」の段階ですが、伝統的な日本の教育観だと、「黙ってやれ」というような、先生の言うことに絶対服従するイメージがあります。
「守」は、守るの守。言いつけを守る、きついことや理不尽なことでも従わなければならないというイメージです。
けれどもずっと修行してきた私の実感としては、必ずしもそうではないと思っています。伝統武道の世界でも、学ぶ側に主体性はあります。
スポーツの世界では、「アスリート・センタード・コーチング(選手中心の指導法)」が主流となりつつありますが、近年、この自分で考えさせる指導法は、武道の世界でも注目されていて、特に海外で流行しています。上から一方的に指導するのではなく、選手に課題を与えて、自分で考えさせる指導法です。
そして、もともと伝統的な武道の修行にも、「自分で考えさせる」要素があると私は思っています。
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「守」のなかにある主体性
アスリート・センタード・コーチングの基本的な考え方は、「スポーツは楽しくやらないと伸びない」です。選手の欠点を批判し、矯正するのではなく、長所を伸ばしていく。課題を与え、自分で考えさせることで、学ぶことの楽しさを実感させる。2023年、夏の甲子園で107年ぶりに優勝した慶應義塾高校の野球部でも、監督がそのような方針で指導していたと聞きます。
そして武道の指導でも、昔から同様のことが行なわれてきたと、私は思っています。
武道修行のプロセスとして、まず先生からいろいろなことを学びます。そしてスポーツには無い武道の特徴として、「引退が無い」ということが挙げられます。つまり、武道では、指導する先生も、現在進行形で技術を学び続けているのです。私が教わっている八段の先生方にも各自の課題があり、それぞれが自分の課題に取り組んでいます。
このような武道特有の学びの関係性を、「師弟同行」と言います。師匠も弟子も、同じ道を歩んでいる。レベルや課題は違えど、先生も学び、生徒も学んでいる。そのような関係性のなかで、師匠から弟子へと技術が伝承されていく。
そして、この同行するふたりを貫いているのが、「求道心」なのです。ひとつの道を、ひたすらに追求していく心です。現代的に言うなら「向上心」が近いでしょうか。「昨日の自分よりよくなりたい」という前向きな心です。
この求道心のなかに、武道の楽しさがあるのです。「守」の段階で教わることの意味や目的は、すぐには理解できなくても、稽古を続けるうちにわかってきます。主体性を持って、自分の課題を見つけていくのです。