視聴率が取れなくても、WOWOWがパラアスリートのドキュメンタリー番組『WHO I AM』を作り続ける理由

様々な話題を呼んだオリンピックのあと、パリの街はパラリンピックを迎えている。そしてパラリンピックへの注目は、回を重ねるごとに高まっている。2021年に開催された東京パラリンピックの開会式の視聴率は、23.8%(関東地区)を記録した。22競技539種目のメダル争いにNHKが費やしたテレビの総放送時間は、BS放送も含めると590時間にのぼる。

今でこそパラリンピックは、オリンピックやサッカーワールドカップに次ぐ規模の国際スポーツ大会に発展し、社会的な影響も大きくなった。

テレビ中継を通じて障害者への理解が深まり、パラスポーツに参加する人も増え続けている。スポーツ文化の発展に与えるテレビの影響は大きいが、それはパラスポーツでも同じだ。

一方、報道する側にとってはパラスポーツをどう伝えるかについては悩みが絶えない。アスリートを「困難な経験を乗り越えた人」と単純に描くことは、お涙頂戴の「感動ポルノ」と批判されることもある。

では、アスリートとしての面だけを強調して描けばいいかというと、そう単純ではない。陸上男子走り幅跳びのマルクス・レームのように、健常者の世界記録を超える可能性のあるパラアスリートもいるが、そういった「スーパー障害者」の存在だけがパラスポーツの魅力ではないからだ。

そんな葛藤を抱えながらもパラスポーツの魅力を伝えようと真正面から取り組み、国内外から高い評価を得ているテレビ局がある。日本初の有料衛星放送局として1990年に開局したWOWOWだ。

WOWOWでは、パラアスリートや障害を持つアーティストの内面に迫ったドキュメンタリーシリーズ『WHO I AM』で米国テレビ界の最大の祭典であるエミー賞にエントリーされたほか、数々の受賞歴がある。パラスポーツを伝える「葛藤」をどのように乗り越えたのだろうか。その軌跡を追った。

素人がパラスポーツの世界へ

2015年、WOWOWでプロデューサーとして働いていた太田慎也氏は、突然の配置転換に戸惑っていた。

2013年9月に東京オリンピック・パラリンピックの開催が正式決定し、WOWOWでも大会にどのような関わり方をするかで議論が活発化していた。そのなかで、国際パラリンピック委員会(IPC)と協力し、パラアスリートのドキュメンタリーを制作することが決まっていた。

しかし、具体的にどの選手を取り上げるのか、そもそも「どんなドキュメンタリーを撮るのか」すら決まっていなかった。その状況で、太田氏に制作の統括役として白羽の矢が立ったのだが、本人としては喜びにあふれた人事ではなかった。

当時の気持ちについて太田氏は、「ドキュメンタリーを撮れと言われても、パラスポーツの知識はまったくない。それに、当時進めていた仕事をすべて外されてしまって、正直、不満もありました」と振り返る。

とはいっても、上司から指示が出た以上はその仕事をしなければならないのが会社員の宿命である。まず日本国内のパラスポーツの大会に取材に行ってみたものの、2015年時点での日本国内の大会は、お世辞にも盛り上がっているとは言えなかった。「障害者がスポーツを頑張っている大会」という雰囲気を感じてしまった太田氏は、さらに頭を抱えるしかなかった。

悩んでいてもしょうがない。そこで思い切って、同年7月に英国のグラスゴーで開催されるパラ水泳の世界選手権に行くことにした。

2012年に開催されたロンドン・パラリンピックでは、どの競技でも連日たくさんの観客が押し寄せ、パラリンピックが国際スポーツ大会としての地位を確立した。そのことは知識として理解していても、実際にどのような大会なのかはまったくわからない。それで現地に足を運んでみたのだが、これが驚きの連続だった。

「会場ではアップテンポの音楽が流れて、MCが客席を盛り上げていました。世界選手権なので、選手たちは各国の代表ジャージを着て、誇りを持ってプレーしている。ただひたすらどの選手もカッコよかった」(太田氏)

レース後のインタビューを聞いていても、家族や仲間と一緒に着実に歩みを進めて目標を達成している。その姿を見ると、障害を持ったアスリートが「自分なんかより人生をエンジョイしてる」としか思えなかった。その時だった。「これはすごいドキュメンタリーを撮れるかもしれない」と直感した。

「結局、『障害者は困難な人生を歩んでいる人』と決めつけていたのは自分だったんですよね。プライドを持って競技に取り組んでいるパラアスリートの姿は純粋にカッコよかった。『番組を制作して障害者を応援したい』なんて考えていた自分が、本当に恥ずかしくなってしまいました」(太田氏)

障害がある、ないは考えない。その人のありのままの姿を撮る。そんなドキュメンタリーを制作することを決めた。

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制作者側のストーリーを事前に決めない

取材の時に気をつけたことがある。制作側のストーリーも事前に作ることはしない。撮影する側の意図に、作品が誘導されることを避けるためだ。

たとえば、車いす陸上女子のタチアナ・マクファデンは、旧ソ連で生まれた時から両足が動かず、児童養護施設に入っていた。冷戦終了後の混乱で、施設には車いすもなく、幼い頃は逆立ちで歩いていた。ところが、逆立ちの生活によって両腕とそれを支える筋肉が発達したことが、車いすレーサーとして伝説的な強さにつながっていた。

「メディアの人間なら、この話を聞いたら『これは物語にしやすい』と思うでしょう。でも、それだけで番組を作ることはしません。困難な子ども時代だけではない魅力が彼女にはあるはずで、それを伝えたかった。障害そのものを描くことはドキュメンタリーを制作するうえで避けて通れませんが、どのようにバランスを取って取り上げるかは、いつも議論をしています」

実際の番組では、マクファデンがアスリートとして大事にしている「ヤサマ(やればできる)」というロシア語の言葉が紹介され、独自のトレーニング方法の様子が、練習拠点にしているイリノイ大学にまで密着して撮影されている。

もちろん、障害についても描かれているが、自らの経験をイリノイ大学の授業で学生たちに話す姿も紹介されている。その後、米国人の里親に引き取られることになり、渡米した彼女と新しい家族との関わりも重要なポイントになっている。

実際にどのようなドキュメンタリーになったかは、WOWOWオンデマンドで無料公開されているので見てもらえると理解できると思うが、一般的なスポーツドキュメンタリーとは違う「人間としてのアスリート」に迫る作品だ。

そのことは、WOWOWの上層部にも伝わった。放送前の試写の段階で、番組を高く評価したのは、社長の田中晃氏(現・会長)だった。

田中氏は日本テレビの出身で、プロ野球の巨人戦や1987年の箱根駅伝で初の生中継を成功させた。関東地方の大学生のローカル駅伝大会である箱根駅伝を、日本の正月の風物詩に発展させたスポーツ中継のスペシャリストだ。その田中氏が、試写が終わった後にこう感じたという。

「純粋に『映像にものすごい力がある』と思ったんです。ただ、太田には失礼だけど、視聴率なんて最初から期待してなかったし、たくさんの人に見てもらえるとは思えなかった。実際に現場の人たちは、視聴率が上がらなくてがっかりしてたようです。でも、私は気にしなくていいと思った。だって、圧倒的な映像の力があったから。だから、有料放送の『WHO I AM』は活動の入口であって、もっと外に出ていこうという方針にしました」

これで、『WHO I AM』の未来が決まった。2016年の放送開始後、『WHO I AM』の合言葉は「放送をゴールではなくスタートに」になった。

有料放送の枠内で放送するだけではなく、金メダリストを招聘した教育機関での授業、映像の教材化、書籍やコミック化など、パラアスリートやパラスポーツ自体の魅力を伝える教材として、社会に広く発信する活動に力を入れた。

作品の多くが無料公開されているのも、もっと社会に広くパラアスリートのことを知ってほしいという思いからだ。太田氏は言う。

「番組は、いわゆる高い視聴率が取れるわけでも、シリーズを通じて爆発的にWOWOWの加入者が増えるわけではないかもしれません。一方で、教育用の素材として大学などで講演をお願いされる機会が増えて、すでに100回を超えています。教育教材として学校現場で映像が使用されることはWOWOWとしてもとても幸せなことだと感じていますし、社会とつながることのできるシリーズだと考えています」