2022年9月、鮮やかな色の巻きスカートやモードなデザインのパンツを身にまとい、車椅子に座ってスポットライトを浴びるモデルたちの姿が世界的な注目を集めました。その舞台は、フランス・パリにあるパリ日本文化会館のランウェイ。車椅子に乗ったモデルによるショーは、言わずと知れた世界規模のファッションショー・パリコレ(パリ・コレクション)のファッションウィーク期間中に開催されました。
このショーの発起人は、「障害の有無や性別、年齢を問わず、誰もが着られる機能的な」をコンセプトとするブランド『bottom’all(ボトモール)』を展開する、日本障がい者ファッション協会の代表・平林景さん。
ショーの冒頭、自ら黒の巻きスカートを身にまとい、車椅子に乗って登場した平林さんは、「障害のある人にとって衣服の機能性はとても重要。けれど、機能性にこだわると、デザインの格好良さは二の次になってしまいます」とスピーチ。「障害の有無に関わらずオシャレを楽しんでほしい」というメッセージを観客に訴えかけました。
ファッションの力で偏見や不平等が残る社会を変えていこうとしている平林さん。その根本にあるのはあくまで、「ワクワクしたいという自分本位な思い」なのだとか。多くの困難を乗り越え、パリのランウェーに立つまでの歩みを平林さんに伺いました。
「モテたい」一心で美容師になるものの、夢を諦めざるを得なかった
生まれも育ちも大阪の平林さん。子ども時代を振り返ると、通信簿に決まって「落ち着きがない」と書かれていたほど活発だったといいます。90年代のビジュアル系バンドブームの影響もあり、中学生になると自分でもバンドを始め、派手なファッションや髪の色を楽しんでいたのだそう。
「バンドとファッションに夢中で勉強はほとんどしなかったのですが、やりたいことを尊重してくれる親からは、あまり怒られた記憶がないんですよ。オシャレが好きだったので、中学を卒業するころにはすでに『美容師になりたい』と決めていました。理由は単純で、美容師はモテると思ったから。本当にそれだけです(笑)」
専門学校を卒業し、美容師としてはたらき始めてからは、好きな服を身にまとい、オシャレをしながらはたらける環境を楽しんでいた平林さん。仕事の忙しさも、技術を磨くために夜遅くまでレッスンをすることも苦にならなかったものの、仕事を続けるうちにある「壁」にぶつかります。パーマ液やカラー剤を使い続けたことで持病のアトピー性皮膚炎が悪化し、仕事を休まなければならないほどに肌が荒れてしまったのです。
「アトピーがひどくなるたびにお休みをもらうことが続いていたんですが、美容師としてはたらき始めて3年目の頃、悪化したアトピーが全身に広がってしまって。仕方なく退職し、1年ほどアルバイトをしながら食いつないで、また別の美容室に再就職したんです。でも、結局またアトピーがひどくなってしまい、さすがに心身ともに限界がきて……美容師の仕事自体を辞めることになりました」
それまで、美容師以外の仕事の経験はゼロ。自分に何ができるのか悩んでいた平林さんに、予想外の転機が訪れます。前の勤務先である美容室の店長から、「専門学校の講師をしてみないか」と声がかかったのです。
「店長の知り合いの方が美容系の専門学校を立ち上げて講師をされていたんですが、当時、その学校の姉妹校が大阪にできるタイミングだったんです。正直、自分に適性があるかどうか未知数だったのですが、次の仕事も決まっていなかったですし、ぜひやってみたいと答えました」
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「凡人でも世の中って変えられる」と気付いた教員時代
採用面接を経て、美容系の専門学校の教員としてはたらき始めた平林さん。人に何かを教える経験ははじめてだったものの、仕事を通じて生徒たちと向き合ううちに「教員は意外と向いているかも」と思うように。
「そもそもぼくはあんまり指先が器用じゃなかったんです。美容師時代も技術を言語化して考えないと理解できないタイプで、『感覚的に学ぶ』というようなことはできませんでした。しかし、それは人に技術を教える上で、思いのほか役に立ちましたね。不器用な子がどうすれば技術を身につけられるのか、理屈で教えることができるので」
教育者として順調にキャリアを積み上げていく中で、平林さんに再び転機が訪れます。きっかけは、発達障害のある子どもたちと接するようになったこと。当時の療育(発達支援)は、できること・できないことがはっきりしている子どもに対し、苦手を克服することを強いるようなものになっていると感じたそうです。
「嫌なこと、苦手なことばかりを延々やらされるのって『ほぼ罰ゲームやん!』と思ったんですよね。ぼくは自分のやりたいことや長所を尊重してもらえる環境で育ってきたから『自分はこれが好きだから』『これが得意だから』という軸さえ持っていれば、仕事でも人生でも道は開けると身を持って知っていました。だからこそ、凸凹が激しい子どもたちの短所ではなく、長所を伸ばすスクールをつくりたいと思うようになったんです。
当時勤めていた学校法人の理事の方々にそんなスクールを立ち上げたいと提案したところ、受け入れてもらえまして。当時のぼくの配属先であった学校法人が運営する大学内で『東京未来大学こどもみらい園』という形で新たに施設を立ち上げ、その責任者を務めることになりました。また、同じ施設内にフリースクールがあれば発達障害のある子たちが安心して進学していけるのではないかと、続けて大学の校舎内にフリースクールも立ち上げました」
当時、大学が主体となって発達障害のある子どもの支援施設を立ち上げるのは前例がないことでした。スクール立ち上げ時には、平林さんの下に取材が殺到したといいます。
「新しいものをつくることへの「ワクワク」に目覚めちゃいましたね。もちろん、スクールのカリキュラムや講師の採用、広報の方法などを一から考えるのは大変な仕事だったし、それまでの専門学校での実務経験も活きたと思います。でも、ぼくは自分の能力って基本的に高くないと思っているんです。
なので、『こんな人間にもまったく前例のないことができるんだ』と驚いたのが率直な気持ちでした。世の中を変えているのって、意外とぼくみたいな凡人かもしれないな、と。」