「空挺隊員がタクシー運転手を刺し殺した」韓国現代史上、最も悲惨な光州事件…市民や学生に多くの死者が出た事件の始まりとは

1980年韓国。当時、国軍保安司令官だった全斗煥(チョン・ドゥファン)ら軍部がクーデターを起こし、政治へ介入した。それを危険だと感じた学生たちが、民主化のために反対運動を韓国の南、光州で起こしたのだが、それが悲劇の始まりだった。

映画『タクシー運転手~約束は海を越えて~』でも描かれた光州事件が起きるまでを、書籍『秘密資料で読み解く 激動の韓国政治史』より一部抜粋・再構成し解説する。

民主化運動に立ち上がった学生たち

1975年5月13日に朴正煕(パク・チョンヒ)大統領によって宣布された大統領緊急措置九号(維新憲法に反対すると1年以上の懲役)が1979年12月8日に解除されたことに伴い、除籍されていた学生たちが復学し、教職を追われていた大学教授たちも復職した。

1980年春、新学期(韓国の大学の新学期は3月開始)が始まると、復学した学生たちは、かつて彼らを学校から追い出した学長(日本の学部長にあたる)や総長の退陣、当局による学内査察制度の廃止、学校を〝兵営化〟する学徒護国団の廃止などを要求し、学内民主化と維新体制に協力した御用教授らの退陣を求める学内デモを行なった。

しかし、デモ隊がキャンパスの外に出ることはなかった。それが「全斗煥(チョン・ドゥファン)退陣」「非常戒厳令解除」「言論の自由の保障」「政府改憲中断」などのスローガンで政治的要求に変わったのは、全斗煥国軍保安司令官がKCIA部長代理を兼務したことで、全斗煥の政治への介入および旧体制への逆行の危険を学生たちが感じ取ったからだ。

こうして学生たちのターゲットは学内から新軍部政権となり、要求貫徹の名目で警官隊の制止をふりきって市街地に繰り出すようになった。

5月13日夜、ソウルの高麗大学の学生会館に全国の学生代表が集まり、翌日から全国すべての大学が反政府の市街地デモを行なうことを決め、14日と15日に主要都市でデモが行なわれた。

ソウル駅前には10万人を超える学生が集まった。

彼らのデモは投石や火炎瓶による抵抗で、全体としては統制がとれており、過激ではなかった。ところが、15日の夜、学生代表らは市街地デモの中止を決める。市民の呼応がない状況で軍部と衝突するのは賢明でないという判断だった。

国会では5月20日に臨時国会を召集することが与野党間で合意され、戒厳令の早期解除、国会中心の憲法改正などが与野党共同で決議されるはずだった。

ところが、5月18日、非常戒厳令の全国拡大と、金大中(キム・デジュン)らの政治指導者や民主化運動の指導者たちの逮捕など、新軍部が強硬策に踏み切ったことに学生たちは不信感を抱き始めた。

そんな時に、崔圭夏(チェ・ギュハ)大統領が新軍部の圧力に抗しきれず、特別談話を発表する。

「北韓(北朝鮮)共産集団による武装スパイの継続的浸透が予想される。彼らは学外で騒ぎ、暴力化して社会混乱を起こし、社会不安を扇動した」と述べたことに憤まんが爆発。学生や市民たちは突然の強硬策に衝撃を受け、それに触発された学生たちが学外デモを始めた。

5月18日、非常戒厳令拡大発布の2時間後、光州の全南大学と朝鮮大学のキャンパスに空挺特戦団第七旅団が進駐、集会を終えて学内に残っていた学生たちを急襲し逮捕した。さらに、夜明けまでに光州の主要官庁と通り、警察、戦闘警察(武装警察部隊)、軍人隊などが配置された(作戦名は「華麗な休暇」)。

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市民たちが学生のデモに加わる

5月18日朝、全南大学正門前に学生たちが集まってきた。図書館に行くとか、学校に置いてきたカバンなどを取りに行くという学生たちだった。正門には完全武装した陸軍部隊の空挺隊員8〜9人が立ち、学内には入れないから戻れと命令した。

学生の数が次第に増加し、200〜300人になった時、「休校令を撤回しろ!」「戒厳令を解除しろ!」「全斗煥は退陣せよ」などのスローガンを叫び始める。

これに対し、空挺部隊側が「即時解散しなければ武力で解散させる」と警告したので、学生たちは大声で歌って対抗した。そこへ突然、「突撃!」という声がかかり、同時に空挺隊員が学生たちの中に突っ込んできて、棍棒を打ち下ろし始めた。

学生たちは散り散りになって路地に逃げ込みながら、投石で対抗したが、空挺隊員は殺傷用棍棒で殴打し、血だらけになった学生を引きずって連行した。学生たちは錦南路(クムナムノ)に移動した。

デモ隊は光州の中心街である道庁前広場を目指して行進した。市民に事情を知らせるために、「非常戒厳令を解除せよ!」「金大中氏を釈放しろ!」「全斗煥退陣せよ!」「休校令を撤回しろ!」などのスローガンを叫んだ。

カトリックセンター前に集まった500人以上の学生たちは座り込み、数千人の市民が集まってきたため、市内の交通は遮断された。そこに、戦闘警察が飛びかかり、催涙弾が炸裂。逃げる学生たちを警察が追いかけ捕まえる。

それを舗道脇で見ていた市民たちが警察の行為に抗議の声を上げる。警察は学生より多かったため、学生はバラバラに路地に散ったが、再び集まり、スローガンを叫び、デモを開始した。多くの学生が捕まる中、逃げ延びた者たちは執拗にデモを続けた。

光州の中心地である錦南路と道庁前噴水台は、その周辺に公共機関や主要施設が集中しており、バスや多くの車両が通過する。したがって、道庁前で起こった出来事は、あっという間に市内全地域に伝達され、デモは全市街地に拡大した。

ヘリコプターがデモ隊に対して銃撃を始めた。ヘリは学生デモ隊の動きを警察に知らせていたので、警察は先回りして待ち構えていた。

そして午後1時頃、20台以上の軍用トラックが集結し、完全武装した空挺隊員らが投石防御用の鉄帽をかぶり、帯剣と棍棒を持ち、市内各地を回って鎮圧を始めた。