学生デモから民衆蜂起へ
非常戒厳令の拡大に抗議するデモ隊に対して戒厳軍が無慈悲な暴力をふるっているのを見て、市民の抗議はさらに激しくなり、それが市民蜂起へとつながった。
5月19日午前10時頃、錦南路に3、4千人の群衆が集まり、次第にその数は増えていった。商人、周辺住民、家庭の主婦など、数千人規模になった市民に対して軍と警察は、ヘリコプターから拡声器を使用して解散を命じるが、これに従う気配はなかった。逆に市民たちは上空のヘリに向かって拳を突き上げ、罵声を浴びせかける始末だった。
この日、ソウルから光州にやって来た第11空挺旅団が第七空挺旅団とともに残酷な鎮圧作戦を展開した。
警察はデモを解散させるために催涙弾を使用、それに対して、市民たちは投石で応戦する。催涙ガスが立ち込める時は、近くの路地や住宅、商店などに避難し、それが収まると、また群がり始めるという戦い方を繰り返した。
市民たちは舗道のブロックをはがして投げたり、ガードレールや公衆電話ボックスなどを壊してバリケードを作り、戦闘を行なった。
デモ隊の学生や青年たちは「我々の願いは統一」「正義の歌」「愛国歌(韓国の国歌)」などを歌い始め、次第に戦闘的になり、近くの工事現場から角材や鉄材、パイプなどを運んできて武装したり、火炎瓶も登場した。
これに対して空挺部隊が道庁前と光南路四又路に進出、デモ隊を包囲し、襲撃を始めると、市民たちは住宅や建物、商店などに隠れる。これを空挺隊員が数人一組で、周辺屋内を一軒一軒捜して引きずり出し、大勢の人が見る前で裸にしたり、頭を押さえつけたりと残酷な仕打ちをした。
軍ヘリが上空を低空飛行しながら市民に警告する。「市民、学生の皆さん、即時解散し、家に戻りなさい。皆さんは不純分子と暴徒にそそのかされているのです。彼らに加担すると、よからぬ結果となります。我々はどんなことになっても責任は持てません」と呼びかけ、ビラをまいた。
それでも、デモ隊は各地域に拡散し、空挺部隊の残忍な行為に対し、血を流しながら抵抗していた。しかし、戒厳軍はさらに増強され、警察も、木浦(モッポ)・麗水(ヨス)地域を除く、全羅南道(チョルナナムド)内八警察署から1800人以上が増員された。しかし、光州市の全域に拡大したデモを鎮圧することはできなかった。
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タクシー運転手がデモに加わった理由とは
こんなこともあった。戦闘で負傷した人を病院に連れて行こうとしたタクシー運転手に、空挺隊員が降ろせと命令し、運転手が「今にも死にそうな人だから病院に運ばなくてはならない」と訴えると、空挺隊員は車のガラス窓を壊し、運転手を引きずり出して帯剣で腹を刺して殺してしまったのだ。少なくとも3人の運転手が殺されたという。これが翌日のタクシーデモの契機となる。
5月20日午後3時頃、錦南路のデモ群衆は数万人に達した。幼稚園児の手を引いて出てきたおばあさん、若い女性、店員、学生、会社員、家庭の主婦、飲食店の従業員などが集まってきた。
午後5時50分頃、5000人以上もの群衆が道庁に向かって突撃戦を繰り広げた。すると午後7時近くに多数の車両がヘッドライトを照らし、クラクションを鳴らしながら突進してきた。
運輸会社の大型トラックや高速バスを先頭に、その後ろには200台以上のタクシーが集まって来て、錦南路を埋め尽くした。車両行列は激しい怒りの波濤(はとう)のように押し寄せた。デモ群衆はこれによって、さらに勇気づけられ勢いづいた。
この5時間前に、光州駅近くに10台以上のタクシーが集まった。「我々が仕事で客を乗せたのが何の罪になるのか。罪のないタクシー運転手をなぜ空挺隊員が殺すのか」「こんなことなら、我々も闘わなければならない」と言っている間に、タクシーはさらに増え、無等競技場に市内のタクシー運転手全員を集めることになった。
タクシー運転手たちは、目撃した残酷な状況についての情報を交換し、空挺部隊の蛮行を糾弾した。
こうして競技場に集まったタクシーは、200台を超え、錦南路に向かって前進した。タクシーの車列が錦南路に到着すると、市民たちは歓呼の声を上げ、大喜びし、歓迎した。
タクシーを前面に出し、鉄パイプや火炎瓶などで武装したデモ群衆は、催涙弾などを撃つ警察、軍人らと道庁を挟んで激しい戦闘を繰り広げた。
その時、錦南路の群衆は20万を超えていた。道路はデモ群衆で埋まり、MBC放送局は占拠され、デモ隊が局側に光州市内で進行中の残酷な状況をきちんと報道するように要求した。
それが拒否されると、彼らは火炎瓶を投げつけたため、局員が鎮火する事態も起こった。同じ頃、KBS放送局もデモ隊に占拠されていた。
写真/shutterstock